(巻三十五)焼酎や煙の中にモツを焼く(檜林弘一)

(巻三十五)焼酎や煙の中にモツを焼く(檜林弘一)

12月14日水曜日

昨晩も9時前に床に入った。10時からのFM葛飾『きしゃぽっぽ』を聴こうと目覚ましをセット。目覚ましに起こされて虚ろに年末年始の臨時ダイヤ特集を聴いた。

1時ころ一度目が覚めたが直ぐに眠りに戻り6時前まで眠ることができた。

旧暦のことだろうが、師走半ばの十四日だ。

討入を果して残る紙の雪(板東三津五郎)

熱燗や客の一人は吉良びいき(古谷弥太郎)

熱燗や討入り下りた者同士(川崎展宏)

朝家事は洗濯と毛布干し。快晴です。午前中は微風。生協に買い物に行く。駐車場にトイちゃんがいて、気付いて走り寄ってきた。一袋あげた。

昼飯を食って、一息入れて、散歩。図書館、稲荷のコンちゃん、都住のクロちゃんと挨拶して回った。サンちゃんとフジちゃんはベッドで面倒そうにしていたのでそのままにしておいた。風が強くなり、寒くなり、短めの散歩を短く切り上げた。

願い事-涅槃寂滅です。

昨日借りた中の一冊が『短歌と俳句の五十番勝負ー穂村弘×堀本裕樹』で、その中に寺山修司の《人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ》が引用されていた。筆者の堀本氏によればその一問とは「あなたは生きるのか、それとも死ぬのか」だそうだ。そう問われ、“死ぬ”を選べる強い心が欲しい。

寺山修司を解っているのかというと、解っていない。ただ何となく好きな俳句はある。

おもいきり泣かむここより前は海(寺山修司)

鍵穴に蜜ぬりながら息あらし(寺山修司)

サザエさんの性生活 - 寺山修司」角川文庫 家出のすすめ から

を読んでみた。

《「家」の中での性的主導権は、時には経済的ヘゲモニーを上まわるものです。》とある。

サザエさんの性生活 - 寺山修司」角川文庫 家出のすすめ から

サザエさんはパジャマを着て寝ます。ネグリジェを着て寝ることはありません。夫のマスオはいささか欲求不満で、電車の中で、ばあさんを若い女と勘違いしたり、うしろ姿のシャンな女の子のあとをつけて行って、ふりかえると実は長髪ヒッピー男だったりするのです。

夫のマスオは、ムコ養子なのでその生計の何割かをサザエさんの両親に依存しているための遠慮から、進んでサザエさんの体を求めることができないのか、それとも住宅事情(一家六人家族で、和式住宅なので各間共フスマで仕切られているだけでカギもかからなければ、防音の工夫もない)のせいで我慢しているのか、そのへんはあきらかにされていません。ただ、確かなことはこの夫婦が休日を利用して連れこみホテルへ「御休憩」に行くような余裕が経済的にも、精神的にもない、ということです。「サザエさん」の漫画は一種の大河漫画ですが、その夫婦生活のカリカチュアの中でも、性に関するものはほとんど無く、二人がふとんを並べて寝ている描写などは、全五十六巻までの中でも希有のものです。その

> 上、「サザエさん」の中にはきわめて理解しがたい倫理観があって、電車の中で妻以外の関心を持ったりすると必らず失態をやらかして「ああ、オレはバカだケイソツだ」と後悔するようになっているのです。「サザエさん」の中を貫いている「家」の態様は、実はきわめて権力支配的なものであって、この一家の失敗をくりかえしながらも「愛すべき庶民」であるといったトリックでおがかれている手法に、読者はしばしば目をくらまさ れることになります。しかし、漫画「サザエさん」では主人公はサザエさんでも、マスオでもなくて、「磯野家」そのものなのです。マードックは「家族は短命であるのに〈家〉は永続を願望され、この両者は根本的には相容れないものである」と書いていますが、その両者の歪みがもっとも具体的なかたちで反映されているのが、他所からこの「家」へ入りこんできたムコ(つまり、もっとも純粋な意味で「家」と血のつながりをもたぬ家族)のマスオです。マスオが、サザエと結婚しながらついにその性生活を十年間ものあいだ、暗示だにされないというところに、この漫画の呪術的おそろしさが感じられます。今日では、性行為を法制化するための結婚という形式そのものが問い直され、「われわれが結婚したい ということは、抱きあってセックスしたいということだ、というのは誰でも知っている」(W・ライヒ『おしつけがましい結婚とながつづきする性関係』)にもかかわらず、ここではマスオの性欲は「家」の力によって去勢されかけているからです。もちろん「サザエさん」には、描かれざる裏の真実があるのかも知れない。たとえば、マスオはかなり度の深い包茎であるとか、この数年来、インポテンツになやんでいるとか、あるいは公表されないシジミとかムキミといった名の二号がいるとか。ー しかし、少なくとも、マスオの顔にはそうした複雑なドラマが翳を落としていません。マスオの関心はいちおうは出世することか、成功するとかいったことのように予想されるようになっているのが、この漫画の仕組みです。

サザエさんは、夫に「もっと稼げ」とムチ打つ悪妻であり、漫画の中の二人は家に所属している夫と妻という忠実な役割以上のものは描かれません。マスオはサザエさんをおそれながら、ムコであるためにあたり散らすこともできない。私は残念ながら、マスオの幼少時代について何も知らないので、彼の潜在意識がどのようなものであるのか、彼と母親との関係、彼の自慰体験の歴史、そしてまた彼の初体験がどんな風になっているのかなどは、想像はできてもたしかなものではないのです。

ライヒは「性にたいする人間構造は、おしつけがましい結婚の結果、退化してしまった」と書いていますが、サザエさんとマスオの関係の場合は「退化してしまった」のか、それとも最初から性に対してさほどはげしいものではなかったのか、私にはわかりません。ただ、ここに一つの興味深いエピソードがあります。

それは、マスオがサザエさんに性にたいする人間の本能を説明しようとして失敗するというもので、犬を連れたミニスカートの女のところへ接近してゆく一人の男をサンプルにしています。犬に近づくと見せて実は、女をねらっているのだとマスオはサザエさんに男の本意を解説します。サザエさんはそうした男がいるということはなかなか理解できません。なぜなら、彼女は女学校時代にスタンダールの『恋愛論』を読まなかったし、人間関係にそうしたテクニックが必要だなどとは思ったこともなかったからです。ところで男は女の連れている犬に近づいてしばらく犬の頭を撫でているが、やがて犬を抱きあげてチュッ!とキスして、女には目もくれずに立ち去ってて行きます。サザエさんは「ほんとの犬ずきよ

」と言い、マスオは自分の予測が裏切られてガックリ来る、というわけなのです。こうして、マスオの切ない期待はまた一つ裏切られることになるのですが、なぜマスオはじぶんの性的願望を果たすために家を出たり、キャバレーやトルコ風呂に通ったり、自由恋愛をしたりしないのか、(そして、じぶんが夫に性的満足を与えていないくせに、サザエさんはなぜ嫉妬深いのか)という問いかけに答えるのは、一夫一婦制という信仰に裏打ちされた「家」の構造のせいのように思われるのです。磯野家の財産がどれほどのものであるかはべつとしても、マスオの場合はいわゆるナカモチ(中継相続)の養子であ り、カツオ(サザエさんの弟)が成長するまでの仮りの家長であるから、マスオに性的主導権をにぎられてしまっては困るという磯野家の家政の事情もあるのでしょう。徳島地方では、こうした姉養子は、いずれ分家するものとして「家」の中に座を与えないのが慣習でした。ひどい場合には「家督セシメ右嫡男成長ノ上養子隠居シテ家督ヲ嫡男ニ譲ル事ナリ」ということになっていますから、マスオは嫡男カツオが成長したら、隠居するさだめになっていることになるのです。ところが「コノ養子ハ決シテ嫡妻ヲ与ヘズ、妾ヲ蓄ルヲ例トス。蓋シ子ヲ挙ルモ其家ヲ継グベキ権力ヲ与ヘサルノ意ヲ表スル事ナリ」。(日本評論社『全国民事慣例類集』昭和十九年)というわけで、サザエ、マスオの間の一粒種のタラちゃんと、嫡男カツオのあいだにお家騒動が起きたとしても、封建家族制にあっては「よくある話」にすぎないことになってしまうのです。

「家」の中での性的主導権は、時には経済的ヘゲモニーを上まわるものです。少なくとも、近代以後の「家」を支えている大きな要因の一つには「ながつづきする性関係」があげられるということを見落せないからです。W・ライヒはこうした場合の例として、「たがいに快感をえることのできた官能的な体験の結果としての性的な愛着。それは今までの性的な快楽によって性的な満足が非常にあり、将来にまってある快楽のための性的なむすびつきが、あるという場合」と、「満足されない官能的欲求による執着、つまり、パートナーを過大評価することによって特徴づけられ、官能性が禁止されているために、ある種の性的な満足を無意識に期待する場合」の二つを挙げています。マスオとサザエの「ながつづき」の理由は、後者なのですが、後者はしばしば憎悪に逆転する可能性があるのだ、とライヒは書いています。

サザエさんはエロチシズムとは全く無縁の女であるくせに、稀にとんでもない誤解をすることがあります。それは、通行人の男がバナナの皮にすべってころんだのを見て、じぶんが靴下止めをなおしているのを見てころんだのだと錯覚し、「アラッ、わるいことしちゃった」と自惚れたりするようなことです。この場合、サザエさんは自分の魅力を度外視して「男は女がスカートをめくると必ず卒倒するものだ」という固定観念にとらわれているようです。私は、こうしたサザエさんのエロチシズムへの無関心と「家」への忠誠が、一夫一婦の死ぬまでのものだとするあきらめから出発していることが、この漫画の最大の特色であると考えます。サザエさんは月にほんの、一、二回、正常位で性行為をいとなんでタラ

> ちゃんを生み、その後は聖書でいましめるように「出産を目的としないようなセックスの快楽」からきっぱりと足を洗い、もっぱら食欲の方に生甲斐を向けるようにしたのです。しかし、こうしたことから、結婚そのものが「社会の生産手段の私有化としての経済基盤だけを問題にする」ようになっていき、形骸化したサザエさんとマスオの夫婦生活をつくりあげるにいたったのである。

> (以下割愛)