(巻三十五)灯籠流ししてやる義理もないのだが(夏井いつき)

(巻三十五)灯籠流ししてやる義理もないのだが(夏井いつき)

12月27日火曜日

今朝も冬晴れ。どうも昨日は薬を飲み忘れたらしい。まっ、いっか。

錠剤の一つ半端や秋暑し(尾崎八重子)

葉書に「みつちりと思ひ知らされ歳暮れる」を書いた。無駄遣いと言えばこれも無駄遣いだ。

顔本の写真グループに昨日の柿の木の一撮を投稿したら三人の方からすぐにリアクションを頂いた。その後もポツポツ。

細君が花屋に寄り正月の花を買ってきた。一撮。

昼飯食って、一息入れて、散歩。

白鳥の“しまむら”にパジャマを探しに行ったが、防寒着ばかりで今はパジャマの季節ではないようだ。猫は4匹健在です。

夕食は牛コマですき煮のようなものが出るらしい。

願い事-涅槃寂滅です。

「風々さんの無口 - 種村季弘ちくま文庫 雨の日はソファで散歩 から

を読んだが、

《臥草さんをはじめとする友人一同鳩首[きゆうしゆ]協議の結果、千葉の某ホスピスに入ってもらった。肝臓ガンを併発、腹水がたまって腹部はもうはちきれんばかり。しかし某ホスピスは一風変わっていて、「食事も薬もいやなら摂らなくていい。門限はなく、二十四時間院内徘徊もご勝手にどうぞ」という方針なのだ。名月の晩には昼間は超多忙の院長先生がヤキトリ片手にビールご持参で現れ、「庭のベンチで月見でもどうです」と医師と患者が月見酒を楽しんだりする。最後はいい先生に恵まれたのだ。》

という一節がある。十年二十年前の話だろうが、今はどうなっているのだろう。ケア・ホームよりホスピスの方が関心事だ。

関心事なので、それを扱った作品に出合えば残しているが、

「生命の質を尊ぶ - 柏木哲夫」日本の名随筆別巻89生命 から

が在庫の中ではそれを正面から論じている作品だ。

菊枕してホスピスに入る積り(佐滝幻太)

「生命の質を尊ぶ - 柏木哲夫」日本の名随筆別巻89生命 から

淀川キリスト教病院ホスピスが設立されたのは一九八四年四月であった。それからもうすぐ二年になろうとしているが、その間に二〇〇名を越える方々を看取った。ホスピスの働きを短くまとめることはとてもむずかしいが、末期癌など治癒が不可能な病気を持った患者とその家族を医学と看護の力を結集して支えるプログラムである。ホスピスでは苦痛の緩和がまず第一と考えられる。末期の癌による痛みをコントロールするために、ホスピスではあらゆる近代医学の技術と知識が投入される。

多くの患者さんの人生の総決算に参加させていただいてつくづくと感じるのは、人は生きてきたように死んでいくということである。言い換えれば、人は生きてきたようにしか死ねないということである。しっかりと生きてきた人はしっかりと死んでいくし、人に依存して生きてきた人は医者や看護婦に依存して死んでいく。その人の生きざまがみごとに死にざまに反映する。良き死を死すためには良き生を生きねばならないと感じる。

最近医療の世界で生命の質(Quality of Life) を高めることの重要性が叫ばれている。生命の質という言葉は、すこしわかりにくく、説明が必要であろう。一言でいえば、人間らしさということである。生命の長さだけではなく、その生命の中味を問題にしなければならないという考え方である。末期の患者さんに多くのチューブをつけ、ベッドにしばりつけたような状態で、ただ単に時間的に延命することだけを考えるのが本当に患者さんやその家族のためになっているのであろうかとの疑問が投げかけられているのである。

> ホスピスでは限られた生命[いのち]を生きている患者さんのその生命の質を高めることを重要視する。生命の質が高まるためにはまず患者さんが苦痛から解放されることが大切である。例えば、痛みのコントロールが適切になされていないため、患者さんが一日中痛みと闘わなければならないとすれば、その人の生命の質は高いとはいえない。それ故にホスピスでは痛みのコントロールを最優先する。

ホスピスの目標は、その人がその人らしい生を全うするのを支えるということである。AさんにはAさんらしい生の全うのしかたがあり、BさんにはBさんらしい生の全うのしかたがある。ホスピスのケアは個々性を重んじたケアである。ホスピスの働きは死に焦点をあわせたケアではない。ホスピスは生きている、また、生きようとしている人々のその生を支える。人々が最後までその人らしく生ききるのを援助するのがホスピスの働きなのである。

癌末期にみられる不快な症状のうちで最も多く、また、耐えがたいのは痛みである。その他、はき気、嘔吐、便秘、呼吸困難、全身倦怠感、不眠などがおこる。これらの症状をうまくコントロールすることはホスピスの中でとても大切なことである。ホスピスのケアは身体的な症状のコントロールだけではない。患者さんは不安、恐れ、孤独感などに悩む。従って患者さんを精神的に支えることもホスピスケアの中で重要な位置を占める。精神的ケアの中で最も重要なことは、患者さんの訴えに十分な時間をかけて耳を傾けることである。安易に励ますのではなく、苦しみや悩みに理解を示しつつ、傾聴することである。「つらいですね」「苦しいですね」という言葉が、「がんばって下さい」という励ましの言葉よりもずっと患者さんの心に添うものであることを私は日常の臨床の場で患者さんから学んだ。

毎日、ホスピスで働いていて願うのは、患者さんが身体的にも、精神的にも平安であってほしいということである。患者さんの身体的、精神的状態は顔の表情に正直に現われる。回診の時、患者さんの表情をみるだけで痛みがあるかないかはわかる。入院時、痛みのために顔をしかめていた患者さんが数日後、鎮痛剤がよく効いて痛みから解放され、笑顔をみせて下さる時、ああ本当によかったと思う。いろいろと鎮痛のための手段を講じても、なかなか痛みがとれないこともある。医者がけんめいに努力してくれていることがわかるので、患者さんは医者に対する思いやりから、「おかげさまで痛みが大分やわらぎました」と言って下さる時があるが、顔をみると眉間にしわが残っている。表情は正直である。

死顔は一様に安らかである。死そのものは苦痛を伴なわない。死が近づくにつれて意識はうすれ、苦しさを感じなくなる。もし苦痛があるとすれば、それは死へのプロセスにおいてである。

> 死はすべての人に間違いなく訪れる。作家のサマセット・モームは、「世の中には多くの統計があり、その中には数字のまやかしもある。しかし、絶対に間違いのない統計がある。それは人間の死亡率が百%であるということだ」と言っている。多くの人の死を看取ってきたが、その中で感じるのは、死はすべてのことをのみこんで人々を平等にするものだということである。貧乏な人にも金持ちにも、地位のある人にもない人にも、死は平等に訪れる。私にもいつか必ず訪れる死をしっかりとみつめて生きていきたいと願っている。良き死を死すためには良き生を生きる必要があることを多くの患者さんから学んだからである。