(巻三十五)ほどほどに働くがよし山眠る(小島健)
1月13日金曜日
細君が定期検診に出かけてくれて午前中を独りで過ごす。閑居すれば不善を為すのだが、何十万本もストックされているAVだがどれもやることは当然同じで見飽きた。
細君は12時前に帰宅。医者も薬局も混んでいたとの由。薬局の待ち時間に肉屋で牛を買ってきたとのこと。
昼飯をチキンラーメンとパック赤飯で済ませ、一息入れて散歩。
図書館で返して借りてから稲荷を通り都住を抜けて生協と歩いた。風は無いが、陽も注がない。稲荷のコンちゃんは満腹。クロちゃんはいつも通りに愛嬌たっぷり。サンちゃんは空腹のようで公園の端の日溜まりからわざわざ出てきた。
二三日前に買ったブラック・ニッカを廃棄した。机の下に酒瓶を置いてピーナッツで飲むというのもよろしくない。
13日の金曜日ということで黒猫を引き合いに出した顔本の記事が僅ながら見受けられたが、クロちゃんは可愛い‼
願い事-涅槃寂滅です。酔生夢死です。
昨日は、
「刑務所は現代の実験室である - 加賀乙彦」犯罪ノート から
を読んだが、作者自身も承知している、
《刑務所らしからぬ刑務所を夢みるなど、お前が精神医であるためであり、刑務所というのは非人間的な厳格さこそ必要なのだ、なにしろ刑とは懲罰なのだからという人がいれば私は沈黙するよりほかはない。そういう考え方に立てば、職員が受刑者を矯正するなとば愚の骨頂で、刑務所の役目は、定められた懲罰刑を規則どおりに実行すればよく、そのためには保安関係を厳重にして逃走をふせぎ、職員はまったく冷静に事務的に収容者を取り扱うべきだということになるだろう。事実は、明らかにその方面への傾斜が強く、そのような刑務所が多いのである。》
という意見に与してしまう。
ムショの話ではないが、安部譲二さんの作品を思い出し再読した。
「両親の静かな死が僕に悟りを - 安部譲二」死をめぐる50章 から
罪の香と罰の色なり紅薔薇(物江里人)
「両親の静かな死が僕に悟りを - 安部譲二」死をめぐる50章 から
そんなことを絶対に相手に気取られまいとして、ことさら豪気に振る舞っている僕ですが、正直なところは、人並み外れた臆病者なのです。
今までの人生を、ずっと「怖いもの知らず」のポーズで過ごしてきた僕も、今年(一九九七年)で還暦を迎えて、こんなことがやっと素直に白状できるようになりました。
ほとんど全ての、あらゆることが僕は怖いのです。
小説家だなんて胸を張っていても、所詮が給料もボーナスもなければ、退職金も年金もないフリーランサーですから、突然、原稿依頼がなくなったら......と思うと、それだけで夜も眠れません。
僕のあまりの手前勝手に、遂に家人が愛想を尽かして実家へ帰ってしまうという怖れも、常に潜在しています。
過去十年間に約一年間だけ、ひとりで暮らしたことがありましたが、もう思い出したくもありません。
おなかが空くと、仕方がないのでカップラーメンかレトルト食品ばかり喰べていました。
そして部屋の中はまるで鳥の巣みたいになってしまって、お風呂に入るのは、汚い話ですが、ゴルフの後で入るだけだったのです。
性欲を満たそうとして、あまり素敵ではない女の方を口説いたのも、あまりに浅ましくて思い出したくありません。
こんな怖いことを書き始めると、上下両巻の厚い本が出来るほどですが、何よりも怖いことといえば、それは間違いなく死でした。
他にこれより怖いものはないのです。
ある時、自分にも死ぬ時が来て、抵抗することも出来ずに死んでしまうのかと思い始めると、これはもう堪[たま]りません。
宗教家がどんなにもっともらしく説いても、僕は霊魂の不滅とか死後の世界なんてものを、決して信じはしないのです。
神や仏の存在にしても、同じことでした。
そんなものがもし居てくれたら、人間はこんなに不幸になるわけがないと思います。
百歩譲って全能の神がいるとすれば、皆が信じているような慈愛に満ち溢れた方なんかではなくて、サディストの権化のような酷薄非情な化け物もどきに違いありません。
そうでなければ、終わらずに繰り返される人類の悲惨に、説明がつかないと僕は思います。
例をひとつだけ挙げると、気の毒な血友病患者のHIV感染で、こんな悲惨を黙って見ている全能の神を、誰が何と言おうと僕は認めはしないのです。
神も仏もいない死んだ後のことを想うと、少年の頃から僕はその度に参り込んでしまったのでした。
再び目覚めることのない睡りを想うと、どんな夢でもいいから、覚めて欲しいと思うのです。
死んでしまって完全な無になることを想うと、それは究極の恐怖でした。
昭和六十(一九八五)年に父の正夫を八十三歳で、六十三(一九八八)年に母の玉枝を八十一歳で、僕は続けて失います。
これは遺伝だと思うのですが、父も、とても死を怖れた男でした。
少しでも長生きしたいと思ったので、好きな煙草をまず葉巻とパイプに替えて、遂に六十五歳では禁煙したほど父は死を怖れていたのです。
母は宗教の集まりにお誘いをいただくと、なんでもイソイソと出掛けていきました。
宗教には全方位外交をやっていた母を、カソリック教徒だった長姉は、
「母様は、本当に節操がなくて恥ずかしい」
と言って顔をしか[難漢字]めたのです。
姉に叱られた母は首をすくめると、末っ子の僕に小さな声で、
「そんなことを言っても、どなたが本当においでになるのか、見た人も写真を撮った人もいないのよ」
死んだ後で誰がおいでになるのか分からないから、とりあえずどの神様にも頭を下げておくのだと言いました。
四十代までは熱心なローマン・カソリックの信者だった姉も、七十歳に近くなった今では川崎大師にお参りしたり、とげぬき地蔵の縁日に行ったりするようになったのですから、母のことは誰も嘲笑なんかできないのです。
最後には誰でも必ず死んでしまうという、人間の怖ろしくて哀しいところに、宗教家はつけ込んでいるのだと、僕は若い頃から今まで、ずっとそう信じていたのですが、こんなことも遺伝なので、想えば僕も子供の頃から、いろんな宗教とマメにつきあいました。
子供の頃は、クリスマスが近くなると近所の教会に出掛けたり、成人してからは銀座のホステスに誘われて、新興宗教の集まりに行って仏壇を買わされそうになったり、塀の中では短い十句観音経を、何千回、何万回も唱えたりしたのです。
あれだけ死を怖れていた父も、それにずっと全方位外交をマメに続けていた母も、息子の僕が感心したほど静かに死を迎えてました。両親の死を見た僕は、大袈裟に言えば、悟ったのです。
どんなに死を怖れた人でも、死ぬ時はバタバタしないで死んでいくのを見た僕は、
「あ、これなら僕も多分、大丈夫かもしれない」
と思いました。
臆病な自分が最後にはどんなみっともない姿を見せるのだろうと、そんなことを考えていたことも死の恐怖の一部だったのです。
両親の静かな死は、僕に希望を持たせてくれました。
「僕だってその時が来れば、両親と同じように死ねるのに違いない」
と、ほとんど月に三度は胸の中で想います。
多分そうに違いないと思うことで、僕は死の恐怖に耐えているのです。