「四苦の排除 - 養老孟司」ちくま学芸文庫養老孟司の人間科学講義 から

 

「四苦の排除 - 養老孟司ちくま学芸文庫養老孟司の人間科学講義 から

都市における「身体という自然」の排除は、身体が示す自然の人生そのもの、すなわち生老病死を排除するに至る。人生は四苦八苦というときの四苦が生老病死であり、それに必然的に伴う感情を八苦という。たとえばキリスト教における価値すなわち「愛」は、八苦のなかでは愛別離苦と表現される。人を愛すれば、かならず別れが来るからである。それはどちらかが先に死ぬであろうことから考えるなら、当然のことである。
生老病死はもともと人に備わったものである。われわれは自分の意志つまり意識とは無関係に生まれる。さらに意志とは無関係に歳をとり、やがて病を得て死ぬ。その病を知らず、時期を知らない。これが自分自身であることは当然だが、都会人はそれを見ようとしない。もちろん、あえて見たくはないからであろう。したがっていまでは、生老病死はすべて日常生活から排除される。子どもは病院で生まれ、老人と病人は施設や病院に入り、九割以上の死は病院で起こる。これらが日常から排除されるのは、つまりは自然の排除なのである。なぜなら生老病死は人が「予定したものでない」からである。そういうものは、日常生活とは無関係の「異常事」である。しかしすべての人がかならず体験する状況が、なぜ異常か。なぜ日常ではないのか。
ここから逆に、都会人思考原則が導き出される。それは予測と統御、平たくいうなら「ああすれば、こうなる」である。そしてこれこそが、ヒトの意識の重要な機能である。
都会すなわち文明社会では、すべてが「ああすれば、こうなる」という原則で動く。四苦はそうではないから、その世界からできるかぎり排除される。たとえば経済の原則は、「これだけの原価で仕入れたものを、これだけの売値で売れば、これだけ儲かる」というものである。これが「ああすれば、こうなる」であることは、歴然としている。それなら古典的な農業はどうか。宮沢賢治のいうように「サムサノナツハオロオロトアルキ」である。東北で冷害にあえば、オロオロ歩くしか手がない。それはまさに「仕方がない」。しかし、と現代人はいう。「仕方がない」が通用する世界は、つまり「遅れた」世界である、と。そこではまだ進歩が足りない。それが証拠に、そこではものごとはかならずしも「ああすれば、こう」ならないではないか。それならものごとがきちんと予定通りに動くようにしようではないか。そういいつつ、現代人は自分の死すべき時期も知らずに死ぬ。
※私が育ってきた戦後の世界で、庶民の言葉に変化があったとすれば、一つはこの「仕方がない」であろう。暗黙のうちに私が受けてきた戦後教育は、「仕方がない」をいうのは、意識の遅れた人間だというものだった。ここまで説明してくれば、それが都会的原則の浸透にほかならないことが理解されるであろう。都会はすべて人工産物で覆われる。したがって、なにか不祥事が生じれば、それは「だれか人間のせい」に決まっている。都会で石に躓けば、「この石をこんなところに置いたのはだれだ」という詰問になる。熱帯雨林で昆虫採集中に石に躓いても、私は「仕方がない」という。自分で注意するしかない。そんなことは当たり前であろう。しかし都会ではこの種の「当たり前」は通用しない。それは「遅れた人」の考えだからである。だれかのせいにしなければ、生きていけない。損ばかりする。それが都市社会である。いまでは医師がいちばん気にするのは、医療過誤訴訟である。これも同じ傾向によることはおわかりであろう。いまや病気は自然ではない。そのうちすべての病気が医師の過誤と見なされるようになるであろう。
現代人は予測と統御が進行することを進歩と見なす。科学技術はまさにそのために捧げられている。ただそうして予測を行い、統御を試みる人たちが、たとえば自分の死期を知らないというのは、まことに皮肉なことである。すべての予定した物事がきちんと進行したにもかかわらす、完成時以前には自分が死んでしまっていたという可能性を、現代人はあまり考えないらしい。自分が属する組織がそれで完成する。そう思っているのかもしれない。それなら都市で個人主義が浸透するのはなぜであろうか。都会人は本当に「個人主義」なのであろうか。都市の不自由と田舎の自由について、真面目に考えてみる必要があろう。現在の日本という都市社会では、都会の自由、田舎の不自由しか論じられないのである。