「無限の可能性 - 橋本幸士」ベスト・エッセイ2019  から

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「無限の可能性 - 橋本幸士」ベスト・エッセイ2019  から

「若い君たちには無限の可能性があります」なんて言い方は、私は絶対にしない。私のような物理学者は皆、恐らくそうであろうと思う。というのは、もしそんな言葉を理論物理学者の若者達にしようものなら、次のように質問されるからだ。
「無限というのは、どの程度大きいですか?」
世の中では気軽に「無限」という言葉を使いすぎる。私がそのことを気にしているのは、職業病ということもあろう。しかしもう一つ理由があって、それは、安易な世の中の思考停止から自分が一歩抜け出るためのスイッチとして使っているから、ということである。
職業病だ、という意味を少しお話ししておこう。理論物理学者の仕事は、この世の中の現象を数式で記述して、そこから新しい現象なり将来の現象を予測することである。世の中の現象を数式で記述する際に、「無限大極限」を考える必要が出てくるため、私はいつも「無限」を気にしてしまうのだ。例えば、散歩している時に、歩いている地面は平らだと思っているけれども、本当は地球は丸いので、地面は平らではなくて、ほんの少し曲がっているはずである。でも、そんな曲がりを普段考えなくてよいのは、地球が十分大きいから、曲がりの効果が小さいためである。この場合、地球の半径を無限大にする、という近似を行っているのだ。
もし、人工衛星の運動を考えたり、月に行くロケットを考えたりするには、地球が無限に広い平面であるといった近似をすることはできない。地球が丸いことを考慮する必要があるのだ。では、どういった時に「無限」にしてよくて、どういう時にはダメなのか、それを見極める必要があるのだ。理論物理学では常に、「無限にしたら話が簡単になるけど、それホンマに無限にしてええの」という会話がなされている。
つまり職業病のために、「無限の可能性」という安易な言葉に過敏に反応してしまうだけなのかもしれないが、そもそも「無限の可能性」はどのくらい大きいのだろうか。
とても美味しい料理に出会った時、「こんな料理考えた人は天才やな」と思うことがある。世界で初めてスイカに塩をかけた人も、天才だろえ。一方、現代の料理人は、新しい料理を創り出すことに生涯をかけてチャレンジしている。はたして、あとどのくらい、新しい料理の可能性はあるのだろう。無限にあるのだろうか。
スーパーにおよそ一千種類の食材があると近似しよう。そのうち、例えば5品を手にとって、それを組み合わせて料理したとする(きっと料理人には大変失礼な近似だろうが、気にしないことにする)。すると、その組み合わせの数は10の15乗、つまり一千兆通りになる。ばく大な数字だ。近所のスーパーの食材でできる料理の種類でもこんな大きな数になってしまう。「組み合わせ爆発」と呼ばれる現象だ。では果たして、料理の可能性は無限と言えるのだろうか。
地球上の全人口を100億人と近似し、全人類が料理人であると仮定しよう。一日、朝昼晩と3種類の料理を考案する、というリーズナブルな場合を考える。先ほどのスーパーの食材を全て試すのに、全人類が毎食料理を発案して試すとすると、結局、100年かかることになる。全人類が100年!もし全人類ではなく一個人としての料理人なら、毎日3食試しても、スーパーの全食材を5種類で踏破するのに1兆年かかることになる。つまり、このことから、「料理には無限の可能性がある」と言っても科学的に過言ではない。ただし、宇宙人が存在する場合を除く。
こういった組み合わせ爆発は、あらゆる身近な現象に見受けられる。例えば、自転車のチェーンロックにある4桁の番号はどの程度泥棒から自転車を守ってくれるのだろうか。数字の可能性は1万通りなので、1秒に1個の数字を試せば、ざっと3時間で全ての可能性を試すことができる。3時間のアルバイトをしても自転車を買うお金を貯めることは難しいから、泥棒には分[ぶ]がある。けれど、自転車置き場で3時間もチェーンロックを触っていたら、泥棒だとバレるだろう。つまり、4桁というのはギリギリ、いい感じなのだ。もしチェーンロックの数字が3桁だと、自転車は盗まれる。
物理学者ではない誰かが「無限」と口走った時に、「その無限というのはどういう意味ですか」と聞き返すほど、私は世間知らずではない。なので、こっそり頭の中で考え始める。数分間考えたあと、「確かに無限と言ってもいいな」と結論を得て、ほくそ笑む。その頃には、話題はまったく違うものに移ってしまっている。あ、置いて行かれた。私は空を見上げる。
そんな無限の毎日である。