「永井荷風 ひとり暮らしの贅沢(抜書) - 水野恵美子」 永井荷風ひとり暮らしの贅沢 から

 

 

 

永井荷風 ひとり暮らしの贅沢(抜書



) - 水野恵美子」 永井荷風ひとり暮らしの贅沢 から

あてが外れた文化勲章

昭和二十七年
十月廿一日。晴。午後毎日新聞記者小山氏来り今朝文化勲章拝受者決定。その中に余の名も見ゆる由を告ぐ。(以下略)
十月廿五日。陰。正午島中氏高梨氏来話。島中氏洋服モーニングを持ちて来りて貸さる。来月三日余が宮中にて勲章拝受の際着用すべき洋服を持たざるを以てなり。
十一月初三日。晴。朝八時島中氏新に買入れし自働車に乗りて迎ひに来る。(以下略)

文化勲章を受けて荷風が一番喜んだのは、名誉ではなく、それによって得られる文化功労者年金だった。年額五十万円。自ら稼いだ著作の印税からは税金が引かれる。おおいに不服であるものの、国に文句を言っても無駄なこと。それが逆に国から仕送りのように年金が届くという。
毎日新聞記者小山氏」とは、小門勝二氏のことである。戦後、荷風を慕って家によく出入りし、新聞社を退社したあと、「小門勝二」の名で多くの荷風研究書や回想・見聞録を私家版(自家編集・出版)で出した。文化勲章受章前後の様子についても書き残している(『永井荷風の生涯』)
荷風文化功労者年金で、浅草の踊り子たちに甘いものをご馳走しようと考えていた。ところが踊り子たちは、以前のようにご馳走してとねだらなくなった。劇場の幹部から、文化勲章の先生なんだから気安くしてはいけない。今後はくれぐれも失礼のないようになさい、とお達しが出たという。踊り子たちは、猥談などして喜ぶ荷風が、まさかそんなに偉い先生だとは夢にも思わなかった。
急によそよそしくなってしまった踊り子について荷風は「あれはやっぱり文化勲章がわざわいのもとだったんですよ。ぼくはそこまで考えがおよばなかったことが失敗だったんなな。何となく老人のたのしみを一つもぎとられたような感じですよ。もともと政府のおしる粉配給所の看板を出そうなんていう量見がいけなかったんだな。あれはやっぱりぼくのお金を銀行からおろして来てふるまうのがよかった。これは政府から配給のおしる粉だよ、なんていったらみんなののどに通りゃしないかも知れませんぜ。……」とこぼしている。そして次第に楽屋行きの楽しみが薄れ、足も遠のく。以後は一人で映画を見に行くことが多くなった。
受章後、態度が変わったのは踊り子だけではなかった。自宅近所の商店街でも、今までは風変わりな老人ぐらいに見ていたのに、いちいち慇懃に接してくる。荷風はなにより周りの人の目を嫌った。ひっそりと日々の暮らしを送るのが理想であったから、居心地が悪かった。
官僚や政治家に見受けられる偉ぶった人間も荷風は嫌った。だから文化勲章をもらっても、本人の態度は以前のまま。暮らしぶりも何ひとつ変えようとしない。ベルトがわりに紐やネクタイをズボンの腰に巻いたり、袖口が擦り切れた服を平気で着用するスタイルもあいかわらずであった。
「男でも女でもエラクなったような気になってエバリ出したらもうおしまいですよ」と、『婦人公論』(昭和三十三年)の取材を受けて答えている。