「科学の原理 - 山本貴光・吉川浩満」高校生のための科学評論エッセンス ちくま科学評論選

 

「科学の原理 - 山本貴光吉川浩満」高校生のための科学評論エッセンス ちくま科学評論選

 

科学とはなにか? という議論にはさまざまな回答の試みがありますが、ここでは生物学者池田清彦による整理が参考になります。
池田によれば、科学は真理を目指すのではなく「同一性」を目指す営みです。変化する自然現象を、変化しない同一性(言葉)で記述すること、これが科学の営みだというわけです。簡単すぎるくらいですが、これ以上の定義はありません。
どういうことでしょうか。
これは、科学における「記述されるもの」と「記述するもの」の関係から考えればわかります。科学において「記述されるもの」は「自然現象」です。他方で「記述するもの」は「言語」です(「記号」や「数式」もここに含まれます)。 
たとえば、あなたが手にしているレモンを宙に放り投げるときにレモンに起こることが自然現象だとすれば、その放り上げられたレモンの運動を記述する運動方程式が言語による記述です。あるいはそのレモンそのものが自然現象だとすれば、レモンを構成する物質の化学式は言語による記述です。
では、これら「記述されるもの」と「記述するもの」のちがいはどこにあるのか?自然現象(記述されるもの)と言語(記述するもの)では、ちがいすぎて「ちがいがどこにあるか」を考えるのもばかばかしい、そう思う人もあるかもしれません。そうです、そこが重要です。記述される自然現象は記述する言語は、まったく異なっている。それにもかかわらず、科学は言語によって自然現象を記述することができるのです。まさにここに科学の可能性と限界がともにあります。
まず、記述される対象である自然現象の特徴はなにか?それは、絶えず変化することです。具体的には、天体の運動や天候の変化、動植物の誕生・成長・死滅、地形や地層、海や河川の変化、そしてほかならぬあなたやわたしの諸現象です。これにたいして、記述するものである言語は不変です。確かに言語も書かれた文字や口にされた音声というレヴェルで考えれば不変ではありません。人によって、体調や年齢によって文字のかたちはちがっているし、声も人それぞれです。しかし言語の特徴は、そうした差異とは関係なく「意味」の同一性を担っていることです。
現象と言語の関係をもう少し具体的に考えてみます。
自然現象は絶えず変化します。たとえば、ポチという飼い犬がいるとします。ポチは絶えず変化します(ついでにいえばポチに接するあなたやわたしも絶えず変化しています)。それは、ポチが子犬から成犬になり、さらに歳を重ねてついには死ぬということを考えてもわかります。また、あるとき病気になったり、元気でとびはねたりする。いろいろな芸や規則を覚える。そういう意味でもポチは変化しつづけています。とはいえ、ポチはポチです。いくら変化してもポチという同一のなにかでなあるように思えます。
ポチと名づけられた生物は変化する現象です。それにたいして「ポチ」という名前は不変の言葉です。なるほど実際には、いろいろな人が「ポチ」と呼びかけるときの声の高低や調子は異なっているだろうし、あなたが呼びかけるときでも気分によって声音がちがうかもしれない。また、紙に「ポチ」と書けば字の大きさやかたちは人により書くときによりちがっているはずです。しかし、声音や字体がちがっていても「ポチ」という言葉は変化しません。「ポチ」という言葉はいつも同じです。
なにか変化する現象を「同じもの」「同一のもの」として扱うこと。これが言語のもつ強力な力の一つです。いいかえると、言語は不変の同一性を担う機能をもっている。言語のこの機能をもちいて、人間は変化する現象のなかに同一性を見出だします。キッチンの蛇口から出る水も、川を流れる水も、ペットボトルに詰められて売られている水も、同じ水として扱うわけです。

科学も基本的には同じ仕組みをとります。先に述べたように、変化する自然現象を、変化しない言葉、つまり同一性をもちいて表現すること。これが科学の目指すところなのです。
「科学は言葉などというあいまいなものではなく、記号や数式を使っているじゃないか。」と思う人がいるかもしれません。そのとおりです。しかし、科学がもちいる記号や数式は言葉のいいかえに過ぎません。記号も数式もすべて言葉で書きなおすことができるはずです。実際に、記号や数式が考案される前の文献ではそれらは言葉で記されていました。
記号は単に表記上の便宜の問題です。毎回「重力加速度」と書くのは大変なので「G」という記号一文字で表現するだけですし、数式も同じです。「3+2=5」は「3に2を加えると5に等しい」といいかえられます。どんかに複雑な数式も同様に言葉で書き記すことができます。ただ、それだと手間がかかるので「加える」と毎回書くかわりに「+」という記号を使い、「等しい」というかわりに「=」という記号を使うわけです。
しばしば科学をテーマにした本で「難しい数式は使わずに説明しますので安心してください」という前口上がありますが、数式を使わないからといって内容がやさしくなるとはかぎりません。通常は数式で簡単に書き記すところを、言葉でいいなおすわけです。たとえば、万有引力の法則や物体の運動の法則で知られるニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』(『プリンキピア』)には、記号による数式はほとんど出てきません(幾何学図形とそれを使って説明するための記号はたくさん出てきますが)。物理学の教科書などによく出てくる運動方程式「ma=F」も、ニュートンの本では式のかたちではなく文章で記述されています。
科学が厳密だとされるのは、記号や数式をもちいているからではありません。いま述べたように、記号や数式は言葉の代用にすぎません。重要なのは、科学が変化する現象を不変の同一性(言葉や記号)をもちいて記述するということです。
では、科学による記述は、どのように機能するのでしょうか。
ここまでは、科学が現象をどのように記述するかという側面について考察しましたが、こんどは、そのようにして記述された科学がいかに機能するのか、ということに眼を向けてみます。

 

科学による現象の記述は、どのように機能するのでしょうか。
たとえば物理学では、物体の運動をどのように記述するでしょうか。地球上で、ある物体をある高さから落下させたときに、その物体がどれだけの時間で地面に到達するか。あるいは、ボールを投げたとき、そのボールはどういう軌跡を描いて飛ぶか、等々。そうした現象を、物理では物体の運動方程式で表現しました。物体の運動を方程式で表現するということにはどういう意味があるのか。それは、簡単にいうと、時間や場所に関係なくそして誰が考えても(ということは考える人の性格や能力などに関係なく)方程式が記述するとおりになる、という予測を意味しています。物体の落下は、いつ、誰が、どこで、なにを落下させるかに関係なく、物体の運動方程式のとおりにその物体は落下する、という意味です。
つまり、科学の記述は「一般性」を備えています。一般性とは、いつとか、どことか、誰とか、そうした個別具体的な条件とは関係なく成り立つ、という意味です。科学の仮説は誰が実験しても妥当であることが確認できなくてはなりません。
誰が実験しても妥当であることが確認できるような(一般的であるような)同一性として科学が選ぶのは、物質の同一性と、物質どうしの関係の同一性です。
物質の同一性は、ある物質がなにからどのような仕組みでできているかによって記述されます(水は二つの水素と一つの酸素が結合してできている)。物質どうしの関係の同一性は、ある物質とある物質がどのように作用を及ぼしあっているか、つまり法則によって記述されます(地球は太陽のまわりをまわっている)。
このように、科学が記述する同一性は一般性を備えていますが、それは記述の対象を物質と法則という普遍かつ不変なものに限定することによって可能になっています。逆にいうと、あなたにしかあてはまらないこと、わたしだけにしかあてはまらないこと、ある特殊な条件で一回しか成り立たないこと、人によって結果が異なること、つまり一般性をもちえない事柄は科学の範疇外です。
たとえば、あなたの隣の家に住んでいるご主人は、毎朝決まって、あなたが家を出るちょうど一〇分前に家を出るとします。そこから「隣のご主人は毎朝かならず自分より一〇分前に家を出る」という法則を導きだせそうですが、世の中の「隣のご主人」はみんな自分が出るちょうど一〇分前に家を出るでしょうか。そんなことはありません。実際はまちまちです。そう考えると、この法則は一般性をもつことができないので失格、ということになります。
いまや明らかなように、科学とは「真理」を追究する営為ではありません。科学は変化する自然現象を言葉という不変の同一性をもちいて一般性を備えたかたちで記述する学問です。
もっといえば、科学は世界で起こるさまざまな出来事のなかから、同一性で一般的に記述できる出来事だけ(物質と法則)を記述しているということができます。それは世界を眺める独特の方法の一つなのです。