「釣鐘の音 - 井伏鱒二」講談社文芸文庫現代日本のエッセイ井伏鱒二・三浦哲郎編

 

「釣鐘の音 - 井伏鱒二講談社文芸文庫現代日本のエッセイ井伏鱒二三浦哲郎

梵鐘[ぼんしよう]を鳴らすには、撞木[しゆもく]につけてある縄を引張って鳴らす。「ごおん」という音は、縄を引張る人の肩に沁みわたり、胸のなかを走りぬけて足のかかとから逃げて行く。そうして「んん、んん」と唸りながら、次第に消えて行く。
それからまた「ごおん」と撞[つ]き鳴らして、ゆっくり音と音との間隔を置き、また「ごおん」と撞くことになっているが、その音と音との間隔は、撞木の揺れ加減によっておのずから規則ただしくされるものだ。たいてい山門の釣鐘は、よぼよぼの老僧が鳴らすと音の間隔がまぬけになりがちで、いたずら盛りの幼い坊さんが鳴らすと性急になってしまう。気持を落ちつけて撞木の縄を引かなくては工合が悪い。また片手に箒[ほうき]を持って撞いたり、雑談しながら撞くという法もない。気に入った経文を暗誦しながら撞くのはいいものだ。
かねがね私は釣鐘の音を尊敬していた。けれども名所旧跡のお寺の坊さんたちは、旅人に釣鐘を撞かせることを殆ど嫌がる傾向である。釣鐘を一つ撞けば、料金五銭を申受ける寺もある。まだこれなどは諒解できるとしても、はるばると訪ねて行った旅人が鐘楼の鐘を一つ撞いたかと思うと、庫裡[くり]の障子が手荒く明けられ慌しく坊主がとび出して来て、
「こら、お前はなぜ鐘を撞いたか。その鐘は由緒深い鐘だ。無断では撞けぬ鐘だ」
と叱りとばしたりする。これもまだ我慢できるとしても、旅人が寺の境内にはいって行くと、坊主がおっ取りがたなの恰好で追いかけて来る寺もある。こんな寺の梵鐘は音色がつまらない。無論、坊主自身もそれには気をくさらして、ただ勿体ばかりをつけようとしているのだろう。

 

私の田舎の鐘の音

大林寺山という禿山に、一箇所だけ木のしげっているところがあって、その木立の中に大林寺という寺がある(所在地は備後加茂村粟根)。この寺の鐘楼は東に向いている。楼上にのぼると、東南にあたって遠く山の切れ目のところに海がのぞいて見える。それは木の間がくれに遠く海と岬が見えるという趣向である。子供のとき私たちは、この大林寺の鐘が鳴るときに目を閉じていると、遠くに海が見えるような気がすると思っていたのはそのせいだろう。
大林寺の釣鐘の音は、確実に朝の四時と昼の十一時と晩の七時と(冬ならば六時)にきこえることになっていた。朝の四時にきこえる鐘は、もちろん起床をうながす信号であるが、学校子供たちは修学旅行に出る朝とか夢を見て目をさましたときでなくては滅多にそれをきいたことがない。昼の十一時の鐘は病気で学校を欠席した日にきくと、どことなく薬になるように思われた。一ばん聴きなれているのは晩の七時にきこえる入相[いりあい]の鐘である。
この梵鐘の音は、「時刻をお知らせいたします」などという生ぬるいものではない。「さあ、時間が来た。さあ起きよう。さあ行こう。さあ帰ろう。こら、急ぐんだぞ」と私たちに新しい動作をうながす合図である。この鐘が鋳造された過去の時代に、おそらくこの村落の人たちのための実用むき合図であったろう。そのころ、この田舎では朝の四時に起き、夕方の七時に耕作から帰って来るのが、一般の生活であったのにちがいない。そういう生活の仕方が、今でもこの鐘の音にしみこんで響いて来るのが感じられる。
ときによっては、時刻でないのに鐘の音がきこえることがある。「ごおん、ごおん、ごおん」と三つきこえて、それから任意に幾つかの音がきこえて来る。すると年寄たちは、今日は誰それが何のためにお寺まいりをしているのだと云いあてる。それでも若いものは、はて今日はどうして鐘が鳴るのだろうといとまもない。しばらくたって、また「ごおん、ごおん」ときこえると、お寺まいりをした人が帰って行く。大林寺の老僧も外出するときには必ず鐘を鳴らしたが、これは説明できかねる音色の区別によって、坊さんが撞いている鐘の音だということがわかる。その音が「ごおん、ごおん」ときこえてから二十分もたつと、たいてい大林寺の老僧が谷川の橋のところを歩いている。この坊さんは、私たちがお辞儀をしても感じてくれそうに見えなかった。
或る夜ふけに火事があったとき-重久格市という尋常六年生の子供のうちが燃えたときにも、大林寺の鐘が打ち鳴らされた。いつものおだやかな音でなくて、槌でめちゃめちゃにたたいている音であった。私は高い石崖の上で重久格市のうちが燃えるのを見ていたが、どうしても足の震えるのがとまらなかった。様相の変った鐘の音色に怯えていたのであろう。そのとき重久格市は学校鞄をかけ、泣きながら私たちの立っている石崖の上に連れられて来た。私は格市に気がねで、火事を見ているにしても黙っているわけには行かなかった。あの鐘は誰がたたいているのだろうかと云った。要するに格市の味方になるようなことを云ってみた。格市は一向に泣きやまないで、彼のうちが丸焼けになって行くのを見ていたが、藁屋根の棟が崩れ落ちて火焔のあおられる音がとどろくと「ぎゃあ」という声で泣き喚いた。

 


「もんとでら」

 

寺の名は南台寺(真宗)といい、俗名もんとでらという。青森県北津軽郡金木町の町はずれに所在し、住職は生玉慈照という。五十三歳である。
この寺の環境についていえば、石の山門をくぐると、いまごろの季節なら秋草が一めんに茂り、火事で焼けのこりの栗の大木があって、枝が本堂の低い屋根を被い、栗の実が屋根の毀[こわ]れた窪みにたまっている。見るからに貧乏くさい庵寺である。やがて冬になると、住職は炭火を節約するために夜は猫を抱いて眠るのである。
もんとでらの釣鐘についていえば、十年ほど前までは前庭の草むらにころがしたままにしてあった。それで「町の篤志家」と評判をとっている人が鐘楼をたて、やっとその鐘を吊るしたが、べつに罅[ひび]がはいっているとは見えないのに、ひどく破[わ]れ鐘の音で鳴った。鐘楼をつくった大工も篤志家も住職も失望して、殊に町の人が笑うので住職は恥ずかしがって鐘をつかないことにした。
大正十五年の秋、寺の附近に大火があった。そのとき本堂も鐘楼も類焼をまぬがれないだろうと思われていたが、前庭の栗の木が焼けただけで、あとは助かった。火事の最中、住職は釣鐘を撞き鳴らし、つづけさまに撞いているうちに鐘が熱くなって来たので、水をかけながら撞いた。「あのときは、ずいぶん夢中になって撞いたものだ」と住職は後日になって云っている。その急場を目撃した人の話によると、釣鐘は真っ赤になって、水をかけると水をはじきとばしたということである。この現場を見ないで自分のうちで炬燵にあたっていた人の話では、あの破れ鐘も何年ぶりに鳴るのだろうと思いながら音をきいていると、火事が下火になって来るにしたがって鐘の音が次第に澄んで来たという。最初は「じゃぼ、じゃぼ、じゃぼ」という音で鳴っていたが、火の手が絶頂になったころには「ぎん、ぎん、ぎん」ていう音をたて、それから下火になって来るにつれ「かん、かん、かん」という音に変り、ようやく火事がおさまるころになると「ごおん、ごおん」という音にきこえて来たそうである。炬燵にあたって、その鐘の音の変化して行くのをきいているとそろそろ怖ろしくなって来て身動きする勇気もなくなり、人の叫び声で火の手があがったことや屋根棟が焼け落ちたことを判断するだけで、戸の外に出て見る度胸もなかったという。鐘の音色の次第に澄み渡って行く怪奇に圧倒され、手足を動かす気力も失ってしまったという。
しかし釣鐘を撞き鳴らした当人である住職は、この鐘の音は火事のあった翌日から急に冴えた音を出しはじめたと云うのである。住職は頑固にその奇蹟を信じている。
いずれにしても、この釣鐘は明らかに「ごおん」と冴えた音色で鳴り響き、そうして「んんんん」という余韻は、時計で調べた人の云うところによると、五分間ほど尾を引いて響く。
いまでは、この釣鐘の音は午報に用いられている。
春と秋の報恩講には、本山から御使僧が来て町がすこし賑やかになる。当日は、日が暮れるまで絶え間なく釣鐘の音がきこえ、善男善女は何かしら思慮深くなっているようである。

 

 

この鐘の由来について、私は金木町の津島修治氏(後に太宰治と改名)に問い合せたが、次のような報告を受取った。
「拝復、鐘の由来。なにしろ古いものゆえ、鐘の文字が磨滅されていて慶という字がところどころ見える。学者は、慶長か慶応か、いずれにしてもこの慶の字が年号と関係があるのだと云っている。町の人は、弁慶が義経蝦夷へ逃げて行く途中、ここへ投げ込んで置いた鐘だと云っている。吾人の考えでは、町の人の云うのを妥当としたい。地方色を抹殺するほどなら、釣鐘は鋳つぶして売り、午報には工場の汽笛を用いればいい」
私は重ねて津島氏に、伝説の弁慶はどこからその釣鐘を持って来たと伝えられているか、質問の手紙を出した。返事は左記のようなものである。
「拝復、御質問の弁慶と鐘に関する風のたより。その鐘を何処から弁慶が持って来たかは伝えられていない。当地の人は、すべて不思議な現象があると義経と弁慶とに結びつける。津軽の北端の波打際に突兀[とつこつ]たる大岩がある。その岩に、楕円形の窪みがある。いかにも鬼の足跡と云いたい。不思議な窪みである。土地の人は弁慶の足跡だと固く信じて疑わない。弁慶がその岩の上から北海道まで、一と飛びにとんだときの足跡であると信じている。また弁慶に比例して、義経も相当に活躍したことにならなくては、当地の人は満足しない。たとえばここに、もはや口碑と認定してもいい話さえもある。或る旅役者の劇団が、この土地に来て『忠臣蔵』を上演したことがある。しかしこの芝居に義経が登場しそうにないので見物人はよろこばなかった。そろそろ帰り支度をする観客があるのを見てとったこの芝居の勧進元は、気転をきかして役者たちに、どうか義経公の出る場面を一つ加えてくれと頼んだ。それで次の幕になると、義経に扮した人物が緋縅[ひおどし]の鎧[よろい]姿で現われて、どっかと床几[しようぎ]に腰をかけ、それから奥に引込んだ。義経は黙って出て来て黙って引込んだが、観客の熱狂はたいへんであった。そのときの義経公は、簾中の三味線の語り手の『かかるところへ義経公』のきっかけで現われて、床几に腰をかけると『さしたる用事もなかりせば、やがて一間へ入りたまう』と送られて引込んで行った。一口噺にも似ているが、この地方の気風を暗示して吾人にはなつかしい一種の口碑である。そうして釣鐘を弁慶が投げすてて行ったという伝説を発案した大衆の心根も、吾人はなつかしく思う。釣鐘の音に関する研究も面白いかもしれないが、この土地に来て、寺の鐘を一つ撞いてみたいという熱望を失ってはいけないと考えられる」