「砂糖 - 永井荷風」作家と珈琲 から

 

「砂糖 - 永井荷風」作家と珈琲 から

病めるが上にも年々更に新しき病を増すわたしの健康は、譬えて見れば雨の漏る古家か虫の喰った老樹の如きものであろう。雨の漏るたび壁は落ち柱は腐って行きながら古家は案外風にも吹き倒されずに立っているものである。虫にくわれた老樹の幹は年々うつろになって行きながら枯れたかと思う頃、哀れにも芽を吹く事がある。
先頃掛りつけの医者からわたしは砂糖分を含む飲食物を節減するようにとの注意を受けた。
誰が言い初めたか青春の歓楽を甘き酒に酔うといい、悲痛艱苦[かんく]の経験をたとえて世の辛酸を嘗めると言う。甘き味の口に快きはいうまでもない事である。
わが身既に久しく世の辛酸を嘗めるに飽きている折から、今やわが口俄にまた甘きものを断たねばならぬ。身は心と共に辛き思いに押しひしがれて遂には塩鮭の如くにならねば幸いである。
午[ひる]にも晩にも食事の度々わたしは強い珈琲にコニャックもしくはキュイラソォを濺[そそ]ぎ、角砂糖をば大抵三ツほども入れていた。食事の折のみならず著作につかれた午後または読書に倦んだ夜半にもわたしは、屡[しばしば]珈琲を沸すことを楽しみとした。
珈琲の中でわたしの最も好むものは土耳古[トルコ]の珈琲であった。トルコ珈琲のすこし酸いような渋い味いは埃及[エジプト]煙草の香気によく調和するばかりでない。仏蘭西オリヤンタリズムの芸術をよろこび迎えるわたしにはゴーチェーやロッチの文学ビゼやブリュノオが音楽を思出させるたよりとも成るからであった。
いつ時分からわたしは珈琲を嗜み初めたか明かに記憶していない。然し二十五歳の秋亜米利加へ行く汽船の食堂に於てわたしは既に英国風の紅茶よりも仏蘭西風の珈琲を喜んでいた事を覚えている。紐育[ニューヨーク]に滞留して仏蘭西人の家に起臥すること三年、珈琲と葡萄酒とは帰国の後十幾年に及ぶ今日迄遂に全く廃する事のできぬものとなった。
蜀山人が長崎の事を記した瓊浦又綴[けいほゆうてつ]に珈琲のことをば豆を煎りたるもの焦臭くしつ食うべからずとしてある。私は柳橋の小家に三味線をひいていた頃、又は新橋の妓家から手拭さげて朝湯に行った頃-かかる放蕩の生涯が江戸戯作者風の著述をなすに必要であると信じていた頃にも、わたしはどうしても珈琲をやめる事ができなかった。
各人日常の習慣と嗜好とは凡そ三十代から四十前後にかけて定まるものである。中年の習慣は永く捨てがたいものである。捨て難い中年の習慣と嗜好とを一生涯改めずに済む人は幸福である。老境に入って俄に半生慣れ親んで来たものを棄て排けるは忍び難い。年老いては古きをしりぞけて新しきものに慣れ親しもうとしても既にその気力なく又時間もない。

 

珈琲と共にわたしはまた数年飲み慣れたショコラをも廃さなければならぬ。数年来わたしは独居の生活の気儘なるを喜んだ代り、炊事の不便に苦しみいつとはなく米飯を廃して麺麭[パン]のみを食していた。塩辛き味噌汁の代りに毎朝甘きショコラを啜っていた。欧州戦争の当時舶来の食料品の甚払底であった頃にも、わたしは百方手を尽くして仏蘭西製のショコラを買っていたのである。
巴里の街の散歩を喜んだ人は皆知っているのであろう。あのショコラムニエーと書いた卑俗な広告は、セーヌ河を往復する河船の絃や町の辻々の広告塔に芝居や寄席の番組と共に張付けられてあった。わたしは毎朝顔を洗う前に寝床の中で暖かいショコラを啜ろうと半身を起す時、枕元には昨夜読みながら眠った巴里の新聞や雑誌の投げ出されてあるのを見返りながら、折々われにもあらず十幾年昔の事を思出すのである。
巴里の宿屋に朝目をさましショコラを啜ろうとて起き直る時窓外の裏町を角笛吹いて山羊の乳を売行く女の声。ソルボンの大時計の沈んだ音。またリヨンの下宿に朝な朝な耳にしたロオン河の水の音。これ等はすべて泡立つショコラの暖い煙につれて、今も尚ありありと思出させるものを、医師の警告は今や飲食に関する凡ての快楽と追想とを奪い去った。口に甘きものは和洋の別なくわたしの身には全く無用のものとなった。
たしかリュキザンブルの画廊だと覚えている。クロードモネーが名画の中に食事の佳人は既に去って花壇に近き木蔭の食卓には空しき盞と菓子果物を盛った鉢との置きすてられたさまを描いたものがあった。突然わたしが此の油画を思い起したのは木の葉を縫う夏の日光の真白き卓布の面に落ちかかる色彩の妙味の為ではない。この製作に現われた如き幸福平和にして然も詩趣に富んだ生活に対する羨望と実感との為である。
父の世に在った頃大久保の家には大きな紫檀の卓子の上に折々支那の饅頭や果物が青磁の鉢や籐編みの籃に盛られてあった。わたしはこれをば室内の光景扁額書幅の題詩などと見くらべて屡文人画の様式と精神とを賞美した。
浮世絵を好む人は蕙斎[けいさい]や北斎等の描ける摺物[すりもの]に江戸特種の菓子野菜果物等の好画図あるを知っているのであろう。桜花散り来る竹緑に草餅を載せた盆の置かれたる、水草蛍籠なぞに心太[ところてん]をあしらいたる、或は銀杏の葉散る掛茶屋の床几に団子を描きたる。此等の図に対する鑑賞の興は蓋[けだし]狂歌俳諧の素養如何に基く事、今更論ずるまでもない。
柏莚[はくえん]が老の楽に「くづ砂糖水草清し江戸だより」というような句があったと記憶している。作者の名を忘れたが、これも江戸座の句に「隅田川はるばる来ぬれ瓜の皮」というのがあった。
詩文の興あれば食うもの口舌の外更に別種の味を生ず。袁随園[えんずいえん]の全集には料理の法を論じた食単なるものがある。明治初年西田春耕と云う文人画家は嗜口小史を著して当時知名の士の嗜み食うものを説明した。いずれも当時文化の爛熟を思わしむるに足る。
われ等今の世に趣味を説くは木に攀[よ]じて魚を求むるにひとしい。わが医師わが身に禁ずるに甘きものを以てしたるは或は此の上もなき幸いであるやも知れぬ。最早都下の酒楼に上って盃盤の俗悪を嘆く虞[おそれ]なく、銀座を散策して珈琲の匂いなきを憤る必要もない。