「数学的センス - 藤原正彦」日本の名随筆89“数”から

 

「数学的センス - 藤原正彦」日本の名随筆89“数”から

 

数学的センスという言葉が最近しばしば人の口にのぼるが、一体どんなものだろうか。漠然としていて何のことだか分りにくいけれど、存在することは確かなようである。一口に数学的センスと言っても、その種類はいろいろあって、本質を明らかにするのはなかなか容易ではない。例を一つ挙げてみよう。
整数であり、自分自身と1の他の約数を持たないものを素数という。たとえば2、3、5、7、11、13、17、19などはみな素数である。素数がいくらでも存在すること、すなわち無限個であることはギリシャ時代から知られている。さて、何の規則性もなく並んでいる素数から、その無限性を意識上に捉え、さらにそれが真理であることを予測した人は数学的センスのある人と言えよう(洞察型センス)。この定理の証明にあたり、さまざまな隘路に迷い込むこともなく、最も厳密かつエレガントな証明を与えた人はセンスのある人である(触覚型センス)。また、この定理に内在する重要性、深遠さとか美しさを感じとることのできる人もセンスある人と言えよう(情緒型センス)。他にこれらの混合型や派生型もあるが、大雑把には数学的センスはこの三つの形をとっているように思われる。それぞれをもう少し詳しく吟味してみよう。

 

まず洞察型センスについて考えてみる。ニュートンとリンゴの話が本当かどうかは知らないが、普通の人なら看過するであろう現象に注目し、そこに本質的な何かを嗅ぎとることのできる人が時時いる。また、一見まったく無関係な事象の間に、目覚ましい類似性を見出したり、その性質の普遍性を正確に予感したりすることのできる人がいる。彼らは物事の本質を見透す力、洞察力が特別に発達した人々である。先輩T氏は、この能力に秀でていて、ある数学的命題が成立するか否かを実によく言い当てる。セミナーなどで、彼に「それはいいみたいだな」と言われてから皆で考えてみると、しばらくして実際に正しいことが証明されたり、「それはどうかな」と首をひねられると、後になって反例が見つかったりする。彼自身、証明を持っているわけでも反例に気付いている風でもないのだが、とにかく正しい予測をする。数学以外にも類似の話を聞いたことがある。将棋の升田九段は、局面を見ただけで、ほとんど瞬間的に詰むが詰まぬかが分ってしまうらしい。ただし具体的にどうして詰めるかはすぐには分からないこともあるという。こういった人々においては、論理の後に結論がやって来るのではなく、正しい結論が初めに閃き、論理はその後で他人を納得させるために付け足されるのだろう。頭脳の明晰さにより正しい結論を得る人も、動物的嗅覚によりいきなり結論を見てしまう人を前にしては影が薄い。

それでは触覚型センスはどうだろうか。真理の獲得、あるいは定理の証明というものは山登りに似ているかも知れない。前人未到の高山の頂に咲く花、それが未知の真理である定理である。その花が美しいかどうかは元より分からないが、後述の情緒型センスによって、美しい花であると確信した時に獲得への出発が始まる。出発のエネルギーは知的好奇心である。頂上への道は自ら切り開かねばならない。道はいくらでもあるが、ある道は途中を絶壁で阻まれ、別の道は果てしない樹海に呑み込まれ、また別の道は深淵のクレバスに行手をさえぎられる。ほとんどの道は頂上にとどかない。どの道を選ぶかは触覚型センスによって決まる。数学的触覚の指示する方角へ歩みを進めるのである。このセンスの悪い人は、障害のある道ばかりを選ぶこととなり、頂上へは到達できない。登攀力に当るものは論理的思考力である。だからセンスが多少よくても、強靭な論理能力が備わっていなければ頂上をきわめることは無論できない。この能力に優れ、かつ抜群のセンスを持った人は、比較的少数の試行錯誤の後に正しいルートを探しあて、見事に美しい花を手中にすることができる。一方、センス抜群とは言い難い人は(多くの人がそうなのだが)、その花を得たいという欲望がある限り、何度でも試行錯誤を繰返すことになる。山の中腹まで登っては障害に出会い、ふもとまで引返し、再び新しい道を登り始める、ということを繰返す。これは大変に骨の折れる仕事である。だからそのうちには、体力および精神力を消耗し尽くし、登攀を諦めざるを得ない破目になりやすい。また、いかにタフであっても、長期にわたる苦闘の果てに、アイデアが枯渇し、再攻撃をかけようとも新たなルートを発見できなくなることもある。また長期戦の間に疲労が蓄積すると、障害でもないものが乗り越えられぬ大障害に見えたり、逆にどうしようもない障害の前にいつまでも悪戦苦闘したりする。あるいは度重なる挫折の後で、自らの能力に絶望したり、頂上にある花の美しさに疑問を抱いて自滅する、というのもよくあることだ。こう考えると、センスのそれほどよくない人にとって、高嶺の花を手に入れることはかなり困難であることが分る。なぜなら強靭な論理的思考力、体力、精神力を備えていることはもちろん、何度でも攻撃を繰返すための豊富なアイデア、幾度もの失敗にもめげず花の美しさを信じ続ける一徹さ、自分の才能に疑いを抱かない鈍感さとしたたかさ、それに正しいルートに遭遇する幸運にも恵まれねばならないからである。しかし決して不可能というわけではない。むしろ、触覚型センスの不足は、これらによってかなり補えると考えるべきであろう。実際、多少のセンス不足であっても、運をも含めてこれだけのものを持ち合わせている人は天才といってよいのである。

 

情緒型センスとはどんなものか。ここに一つの定理がある。
「四桁の数で、自らの逆転数(たとえば1234の逆転数は4321)の整数倍となるものは8712と9801のみである」
実際、8712=4×2178 9801=9×1089
 である。
この定理を、冒頭に挙げた「素数は無限にある」と比較してみよう。「素数は無限にある」の方がはるかに深く美しいのである。そう思わせるのが情緒型センスである。理由は説明し難い。それはバッハが都はるみを凌駕していることは明らかであるのに、理由を説明するのが困難なのに似ている。このセンスが十分でない数学者は、他の能力で相当に秀れていてもなかなか立派な仕事ができない。並の人間にはとても登れないような高山を、素晴らしい力で登り切ることができても、峰にやっとたどり着いてみると、そこにあるのはいつも茨ばかり、ということになってしまうのである。もっとも当の本人は、それが茨であることにも気付かないのが普通で、周囲の人々が、「あれほどの才能があるのに惜しい」と慨嘆するのである。
逆に、他の才能にさして見るべきものはないが、このセンスだけが妙に発達している人がいる。この人たちの問題は、なまじセンスがよいばかりに、かえって仕事ができないということである。というのは、深遠で美しい理論がそうやたらに転がっているわけではないから、この人たちの目には、他人のしている仕事ばかりか、自分の仕事までがつまらないものに見えてくるからである。そこで勢い自分では生産的な活動は余りせず、他人の仕事の批判に走りがちとなり、周囲の人からは「数学評論家」と呼ばれ煙たがられることになる。

 

これまで三つの数学的センスについて考えてきた。大数学者と言われる人はもちろんこの三つを備えている。彼らの目には、数学が、論理の鎖で結ばれた抽象物などではなく、一つ一つの定理、定義にいたるまでが、自然現象の如く明瞭に見えているに違いない!論理の鎖なら猛スピードで突っ走ることのできる大秀才も、全体を絵のように俯瞰している天才には敵わない。考える人は見る人には敵わないのである。
ただしセンスのよさだけで一流数学者になれると思うのは間違いである。その人の性格というものが大きな影響力を持っているからだ。たとえば、大理論を打ち立てるためにはかなりの数学知識が必要であるが、これは長い年月にわたる厳しい訓練と努力によってのみ得られるものだし、実際の問題に当面した際には、数知れぬ障害にも挫けぬ勇気と意志力、食いついたら放さない執拗さなどが要求されるからである。また楽観的性格も望ましい。
数学的センスの有無は、数学の修羅場で闘う者にとっては切実な問題であっても、それ以外の人にとってどれほどの意味を持つかは疑問である。数学的センスは、言わば船頭の方向感覚みたいなものと言えよう。未知の大海へ何かを求めて漕ぎ出すような時には是非とも必要であるが、日頃慣れ親しんだ河の上下には余り必要ないのである。この場合にはむしろ、頑丈な船(健全なる数学知識)とか船頭の疲れを知らぬ腕力(粘り強い論理思考力)とか困難に挫けない精神力などな方がはるかに有用かつ重要なのである。