「宇野千代先生、お心拝借 - 山田詠美」私のことだま漂流記 から

 

 

宇野千代先生、お心拝借 - 山田詠美」私のことだま漂流記 から

およそ四十年前、私は明治大学の文学部に籍を置いていた。そして、女子大生という響きから来るイメージとはまるで無縁の生活を送っていた。
まったく売れない漫画を描き、日々の糧[かて]を得るために水商売のアルバイトをし、その内、大学に通う余裕もなくなり休学・・・さあて、この先、どうする?私の未来、全然、展望ないよ?と暗澹たる気持ちで宇都宮の実家に戻った時のこと。
ある日突然、家族の顔が恋しくなり、ふらりと帰省したと記憶しているが、もしかしたら、困窮して、どうしようもなくなって、親に金を無心しに行ったのかもしれない。
いや、きっと、そうだ。
あれこれと一人暮らしの娘に干渉したがる親に反抗して、仕送りはいらないから好きに生きさせてくれ、と啖呵を切って、実際にその通りになって以来、自由と引き替えに、現実の重みがのし掛かって来たのだ。
アメリカ映画の題名で「リアリティ・バイツ(Reality Bites)」というのがあったっけ。現実が噛みつく、という意味の青春映画だったが、まさに、そんな感じ。私は、あちこち噛みつかれていて、手当てするために実家に帰ったのだと思う。
その種の手当てに必要なのは、まず、お金。そして、無条件で甘やかしてくれる存在(もちろん、この場合は親)。私は、意地さえ張らなければ、その二つを手に入れられるのを知っていた。それなのに、プライドが邪魔をして、素直になれない。お金を貸してください、のひと言が口に出せないまま、日々が過ぎた。
最初は、久し振りに娘らしい態度で殊勝ににしている私に優しく接していた両親だったが、時間が経つにつれ、過去にやられた親不孝のあれこれを思い出すのか、次第に邪魔者扱いするようになったのである。いつまでいたっていいのよ-、と優しく労[いたわ]ってくれた母親が、あーら間違えちゃった、と私の体の上に掃除機をかけようとするのである。
日曜日、碁盤の前に座り、指南書らしき本を開いて打ち方の研究に余念のない様子の父に、私も碁を始めてみようかなあ、と言ってみたら、じろりとにらんで、こう答えたのであった。
「おねえちゃんは、数学出来なかったから、今からやっても無理なんじゃない?」
何故、数学を持ち出す!?碁と関係あるのか。
ちぇーっ、どいつもこいつも(両親だが)冷たいなーつ、と腐ってゴロゴロしていると、そこに新聞が置いてあったので、何の気なしに開いてみた。「日曜くらぶ」ねえ・・・と紙面をめくる私の目に、その題字は飛び込んで来た。
「生きて行く私」
あ、宇野千代の連載だ!
引き寄せられるように読み始めた。あああ、なんてやんちゃなんだ!宇野千代先生、当時、御年八十四歳。この方は、たっぷりと豊かな分量の過去を幾度も味わい尽くして飽きることがない。そして、さらなる美味を求めて、まだまだ「生きて行く」。天晴[あっぱ]れだなあ!
と、実家で「臨時ごくつぶし」と化していた私は快哉[かいさい]を叫んだのであった。まさか、この後、小説家としてデビューし、宇野先生にお会い出来ることになろうとは、まったく想像も出来なかった。
前にも宇野先生の本は、何冊か読んでいた。けれども、特別な作家として心に刻まれたのは、「生きて行く私」を読み始めてからだと思う。私は、東京に戻っても、毎日新聞の日曜版だけは講読するようになった。それを買うお金にも苦労しているのを知った母が、切り抜きを送ってくれることもあった。

と、こんなふうに書くと、清貧に甘んじて文学修行に励んでいたいたように思われるかもしれないが、全然そんなことはない。新宿ゴールデン街から始めた水商売のアルバイトは、やがて実入りの良い銀座、赤坂、六本木と場所を移して続けられ、稼げば稼ぐほど金遣いは荒くなって行ったのであった。一向に絵の上達しない漫画は、いつのまにか依頼も来なくなり、止めていた。
それから何年間かは、何者でもない自分に対する焦燥感と自堕落に身をまかせる幸福感のせめぎ合いだった。けれど、そんな中でも本を読むのだけは止められなかった。
そして、とうとう、そんな自分に飽き飽きして、小説を書き始めた。でも、書き方が解らないので、原稿用紙に数行書いては捨て、をくり返した。なまじ本読みになり、目が肥えて来ていたので、最初の一行を読んだだけで、それが読み通す価値があるものかどうかが解ってしまうのである。私という読者は、私という書き手の始めの数行を許すことが出来なかった。
それでも書いた。そして、その数行に嫌気が差して捨てた。何年もそのくり返し。途中、いよいよめげそうになったが、小説を書くって、こういうところから始まるのだと信じた。
そんな時、私は、宇野先生が女性雑誌で連載していたエッセイを読み返した。文章作法について書かれた部分を切り取っておいたのである。やがて自分の机を持った時、それは、すぐに目の前のいつでも読める位置に貼られることになるのだが、その時は、居候の身だったので、紙とペンと辞書の入ったバスケットから取り出して、キッチンテーブルで広げた。
そこには、こうあった。
(小説は誰にでも書ける)
そうなのか、そうだよね?ありがとう、宇野先生、と思った。あれから三十数年を経た今となっては、その後に、「でも、書けるだけ」と続けたいところだが、あの時の私は、おおいに励まされた。

しかし、私は、誰にでも書ける小説は書きたくなかったのである。プロとして、お金をいただけ、しかも文学的に評価され注目を浴び、少しばかりちやほやされたい、という欲があったのである。
けれども、続く宇野先生の言葉は、ある日、私を打ちのめした。
〈間違っても、巧[うま]いことを書いてやろう、とか、人の度肝を抜くようなことを書いてやろう、とか、これまでに、誰も書かなかった、新しいことを書いてやろう、とか、決して思ってはなりません。日本語で許された最小限の単純な言葉はをもって、いま、机の前に坐っている瞬間に、あなたの眼に見えたこと、あなたの耳に聞こえたこと、あなたの心に浮かんだことを書くのです〉
いつもなら読み過ごしていたその文章が、何故か、するすると心に入って来たのである。そして、猛烈に恥ずかしくなった。自分が目先の姑息な野心に引き回されているような気分に襲われたのである。
私は、ぴたりと書くのを中断した。今の私は、小説を書くに値しない、と思った。ただ日々をきちんと生きようと自身に言い聞かせた。生活は大事だ。
再び、書き始めたのは、それから何ヵ月か経った時のことである。急に、いてもたってもいられない飢餓感のようなものに襲われて、ペンを握った。原稿用紙の前に座った。恐る恐る一行書いた。書けた。そうしたら、なんと、百枚、書けてしまったのである。そして、その、初めて書き上げた「ベッドタイムアイズ」という小説が私のデビュー作になった。
宇野先生のように人を導くなどということは身勝手な私にはとても出来ない。でも、小説の書き方は教えられないかもしれないが、小説家という生きものについて書き記すことは出来るだろう。宇野先生は、まだまだ生きて行く。