「芭蕉の一生 - 島崎藤村」岩波文庫 藤村随筆集 から

 

芭蕉の一生 - 島崎藤村岩波文庫 藤村随筆集 から

 

「巌の処女」の中で、ダヌンチオは生活の様式の創造を説いている。生活を芸術とするの努力を説いている。
ダヌンチオの想像を実現したに近い人を求めるならば-化令[たとえ]その性質においては近代の人と全く相異なったものにせよ-遠い芭蕉の一生にそれを見出すことが出来る。芭蕉は身みずからの生活の様式を創造した。生活を芸術としようと努めて、ある点までそれを成し遂げた。芭蕉の流れを汲んだ他の俳人にあってはそれが自己の創造でなくて、単に様式の模倣に止まった。だから芭蕉ほどの生命がない。
芭蕉が閑寂と簡素とを愛し、半ば僧侶の如き生活を送り、ある時は幻住の扉を深く鎖[とざ]し、ある時は旅で死のうというほどの覚悟を抱いて出発したなぞは、殆ど生命懸[いのちが]け   と見て可[よ]い。芭蕉の最期に門人らが集って交[かわ]る交[がわ]るつけた花屋の日記は湖中が編纂した『一葉集』の中に出ている。あれを読むと其角が書いた『枯尾花』の長い序文などよりも、もっともっと芭蕉の特色がよく出ている。門人らが芭蕉の病気を心配して、もっとよい医者に見せたいと言うと、芭蕉は聞入れないで、木節[ぼくせつ]の薬で沢山だ、弟子の手に掛って死ねばそれが本望だと言うあたりも面白いし、それからその日記の中で芭蕉の病気が重くなった頃、門人らがやわらかい着物を造って綿服で通して来た師匠に着せるところがある。芭蕉は衰弱した身体にそのやわらか物を着て日のあたった縁側に出て、障子に飛びかう蝿の群を眺めながら一生の終りを思うあたりは、いかにも深い感じを起させる。芭蕉は自分で自分の生活の様式を発見し、また自分で創造した生活の芸術の中に厳粛な最期を遂げた。
一方から見れば、芭蕉はあれほど簡素を愛し清貧に甘んじた人であるにかかわらず、非常に贅沢な人であったような気がする。芭蕉の簡素は贅沢な簡素で、その貧乏は贅沢な貧乏のような気がする。同じ貧乏でも一茶の貧乏とは貧乏なりが違う。着る物がなくて茶色の木綿物を着たり、食う物がなく、納豆汁を食ったというよりも、むしろそれを選んで着たり食ったりした趣がある。これは比喩[たとえ]に過ぎないが、本当の貧乏人から見たら芭蕉の一生は貴族的と言わねばならない。この矛盾は北面の武士から僧侶に成った西行にもあると思う。そしてその矛盾したところが、西行芭蕉の生涯の眼に見えない大きな背景を成しているようにも思う。
そこで私は、ダヌンチオの想像に帰って、こういうconclusionも得た。一体、生活を芸術にするというは非常に贅沢なことだ。非常に貴族的なことだ。誰にでもその贅沢が出来るというに、それはちょっと考え物だと。
芭蕉に比べると西行の一生にはもっと大きなmadnessがあるような気がする。