「熊野路-新日本名所案内 - 三島由紀夫」岩波文庫 三島由紀夫紀行文集 

 

「熊野路-新日本名所案内 - 三島由紀夫岩波文庫 三島由紀夫紀行文集 

 

南紀は陽光のあふれている感じの地方で(実際は雨量がすこぶる多いのだが)、夏のさかりにここを訪れたのはよかった。
私が今まで紀州へ行ったことがないのは、われながらふしぎだ。少年時代のあこがれの的だった妖艶なる女性が、同級生のお姉さんで、その家が紀州の出だと知ったときから、紀州にはいつも幻の美女のイメージがまつわっていた。能楽が好きになり、その「道成寺[どうじようじ]や」「熊野[ゆや]」がみんな紀州にゆかりのあること、お伽草子[とぎぞうし]が好きになり、その本地物の信仰的故郷が熊野にあったこと、のちに、神仙譚が好きになり、その舞台が多く紀州に求められたこと、神秘的な修験道の、役[えん]の行者をはじめとする行者たちの霊地が那智であること、・・・何もかも私の心を惹くものが紀州に源を発し、そこは美女と神仙の国という風に思いなされた。
それだけに幻滅を感じるのがおそろしかったが、今度の紀州の旅は、ほとんど夢を裏切らなかった。
名目は観光旅行だが、名もゆかりもない絶景がどれだけ人の心をとらえるか疑わしい。かつてメキシコから北米テキサスの国境の町エルパソへ入ったとき、そこの奇抜な形の神韻縹渺[しんいんひょうびょう]たる山の名を、タクシーの運ちゃんにたずねて、
「あれ?ありゃあリンカーン・マウンテン」
と答えられたときの失望を思い出すと、やはり旅は古い名どころや歌枕を抜きにしては考えられない。

 

古典の夢や伝統の幻

 

やはり旅には、実景そのものの美しさに加えるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思い出などの観念的な準備が要るのであって、それらの観念のヴェールをとおして見たときに、はじめて風景は完全になる。今度の旅は正にそのような旅であった。
東京から南紀への交通は、そう簡単ではない。夜行の直通急行を利用すればともかく、昼間の汽車では、朝七時四十五分の特急「ひびき」で発っても、名古屋乗換えで、紀伊勝浦に着くのは夕方六時半である。紀勢本線は、地図で見ると美しい海景を左の車窓に保ったまま走るかと思われるが、実際はトンネルを出たり入ったりして、大そう目まぐるしい。
勝浦はしずかな湾を抱いた温泉地だが、宿で夕食をすますとすぐストリップを見にゆく。ストリップこそわが古典芸能の源であり、女性美の根本であるから、紀州へ来たらこれを見るべきだが、私はこんなたのしいストリップ・ショーを見たことがない。東京へ連れて来たいような美しいストリッパーが一人いたが、東京へ来たら、彼女の愛嬌の大事な要素である前歯の金歯を早速抜かれてしまうだろう。
はじめに羊頭狗肉の八ミリ映画があったが、映写技師のおばさんは、スクリーンの曲がっているのを気にして、
「掛軸(!)まっすぐにしておくれやす」
などと、お客を使う。
ストリッパーの一人と、大阪弁の酔客たちとの、息の合ったやりとりは、「観客の参加する演劇」のお手本みたいで、お客を叱りとばしながらにこやかに踊る彼女は、東京の高級ストリップ・ショーの、両性の闘争を思わせる息づまる舞台と客との対決の代りに、永遠に明るくたのしい、両性の仲のよさ、両性のユーモラスな和解を思わせる。
ストリップから判断するのは早計だが、私の紀州の女のイメージは、こういう何でもゆるしてくれる世にもたのしい女と、何もゆるさない怖ろしい女(道成寺清姫)とのダブル・イメージなのである。
-あくる日、早朝、ランチで島めぐりをしたが、晴れた夏の朝の海上に霞が棚引き、かなたの奇怪な形の岩々を、幻のように見せるのが、ふたたび仙境の夢に私を誘った。
しかしこの島めぐりのもっとも美しい眺めは実は島ではなく、海上はるかに望む那智の滝である。日本でも海上からこういう滝が見られるところは他に少ないそうだが、妙法山の右、山肌の露出した小部分に、一筋の白い線が、ここ勝浦の沖から見える。それは満山の緑のなかに、細い象牙の一線をはめ込んだように鮮明に見えるのだ。
こういう風景の特殊な感興は、見える筈のないものが見えるという、或る夢のような経験を与えることである。遠い海上にいて船乗りが、たとえば自分の家で機[はた]を織っている妻の、白い糸をありありと見たら、それは夢であろう。それと同じように、山間深くみるならわしの滝を、こうして沖合から見るよろこびは、二つの世界に同時に住むような感じを与えるのである。

 

征矢いかける那智滝

 

私はむしょうに那智へ行きたくなった。
勝浦からタクシーで三十分ばかり、この神の滝は、やや水が乏しく、姿がやや歪んでいたが、高さ百三十三メートル、幅十三メートルの壮麗な全容は、宮司の厚意で特に滝壺のところまで行って、しぶきを浴びながら仰いだとき、ここに古人が神霊の力をみとめたのも尤[もっと]もだと思わせた。
落口[おちくち]は岸壁を離れて水煙になり、その白い煙の征矢[そや]が一せいに射かけてくるようで、うしろの岩に、その水の落下の影が動いて映る。中ぼどから岩に当って、幾筋にもわかれて岩を伝うが、じっと仰いでいると、その光った石英粗面岩の岩壁全体が、こちらへのしかかって、崩れ落ちてくるような気がする。
滝の横でしじゅうわなないている濡れた草むらを、二、三の黄の蝶がめぐっている。
那智滝祈誓文覚[なちのたきちかいのもんがく]」という芝居では、文覚上人がこの滝の直下に身をしばりつけて滝行[たきぎよう]をする場面があらわれるが、実際にはそれは不可能で、しかも滝壺でしぶきを浴びるのは貴人に限られていたので、文覚の滝とは大滝の下のほうの、大岩の間をほとばしる小滝をいうのだ。
今でも滝行をする行者は絶えず、深夜、滝を浴びていると、いろいろな幻を見るらしい。そういう行者の一人が、
「帷子[からびら]を着て入水したので寒くてたまらぬ、とこぼしている老人の亡霊を見た」
と言ったのが、実際、浴衣の袖に石を入れてこの滝に飛込み自殺をした老人と符合していたのにおどろかされたと、宮司も話していた。
この滝の前でも、また、五百段の石段をのぼって達する本社の前でも、煙に願文[がんもん]を託して焚[た]く修験道のならわしによって、神社でありながら、神前に、香りを抜いた薬仙香をおびただしく焚き、神道護摩の姿を伝えている。明治政府の神仏分離も、この土地の永い神仏混合・本地垂迹の伝統をほろぼすわけには行かなかったらしい。
熊野信仰の源は、ここの本社那智山熊野権現、新宮の速玉[はやたま]神社、本宮の熊野坐[くまのにます]神社、の三つ。いわゆる熊野三山にあるのであるから、私は新宮へ行って速玉神社に詣で、さらにあとで、紀州の旅のおわりを本宮に定め、これでようやく私の愛する中世文学への義理を果したように感じた。
夏の烈しい日のなかを五百段の石段を昇るのは決して楽ではないし、上り切ったところで若いアンチャンの観光客までが、
「足が動かんようになってもた」
などとこぼしているけれど、神社の長い石段は一種の苦行による浄化をも意味しているので、楽に上れたらおしまいである。一例が富士山にドライブ・ウェーが通じることは、「楽に登れる」ということだけでも、神聖化のおわりであり、山岳信仰の死なのである。
苦行の果てにはかならずすばらしい風景が待っている。熊野権現の境内からは、山々のあいだに、東の海をわずかに望むが、そこから昇る朝日の荘厳が偲ばれる。西の眼下には生物学者の垂涎の的である原始林があり、ここではさまざまの亜熱帯の動植物が育っている。
車で新宮へ行き、速玉神社へ参り、また、名物の浮島を見物する。
ここから瀞八丁[どろはつちよう]へ行くわけであるが、結論を先に言うと、私の辿[たど]ったコースは、車で行けるところまで行って、瀞八丁だけプロペラ船を利用するという行き方で、たしかに時間の節約にはなるが、肝腎の瀞八丁の感興を削[そ]ぐことになった。
やっぱり新宮から何時間もプロペラ船に揺られた末に、徐々に瀞八丁へ入ってゆくべきで、私はいきなりレビューのフィナーレだけ見てしまったようなものである。しかもそのフィナーレは十数分で終ってしまうのである。

 

(ここまでにしました。)