「タクシードライバーぐるぐる日記(抜書-身の上話:小規模卸の悲劇) - 内田正治」タクシードライバーぐるぐる日記 から

 

 

タクシードライバーぐるぐる日記(抜書-身の上話:小規模卸の悲劇) - 内田正治タクシードライバーぐるぐる日記 から

 

身の上話:小規模卸の悲劇
(*は脚注-後記)

 

初乗務から休日を挟んだ翌々日。この日からいよいよ一人で営業に出ることになる。
会社を出て、助手席に班長がいないのがこれほど心細いとは。大切な人を失ってしまったかのような喪失感すら覚える。
しばらく走ると、道路で手をあげている女性が見えた。
どうしようと思うが、どうしようじゃなく乗せなければ乗車拒否になってしまう。私は緊張しながら、ゆっくりと近づき、そっとドアを開けた。
お客が告げたのは三ノ輪(台東区)で、たまたま知っている場所でほっとした。
「じつは私、この年齢でタクシー運転手を始めたばかりで、最初のお客さまなんです」と言うと、「ラッキー」と手を叩いて喜んでくれた。明るいノリのいいお客で助かった。
「どうしてタクシー運転手になったんですか?」と聞かれた。
この年でタクシードライバーになったなどと言えば、その理由を聞かれるであろうとは思っていた。きっと今後もこの手の質問*は多く言われるであろう。
お客によって内容や詳しさを使い分けようとは思っていたが、真実を語るつもりでいた。そのお客にもありのままを語った。

 

私がそれまでやっていたのは日用品・雑貨の卸業*だった。もともとは父親が起ちあげた商売で、当然のごとく自分がそのあとを継ぐものだと思っていた。
私、妻、そして両親、手伝ってくれる農家の男性がひとり(彼は田植え、稲刈りの農繁期は休みだった)の総勢5名体制で、小さいながらも株式会社化して、父が社長、私は専務だった。
われわれのような小規模卸は個人商店が相手の商いだった。だが、1980年代から急激に進んだ流通の変革によって、取引相手であった個人商店の多くが淘汰されていった。
やがて流通まで抱えたコンビニやスーパーが主流になり、問屋無用論が現実となり始めた。私たちのような零細問屋*は淘汰され、必要とされなくなるのも当然の流れだった。
そんな斜陽真っ只中で迎えたのがバブルだった。
父親は先細っていく家業のかたわらで始めた株で大金を手にした。最初の数年、株式投資はうまくいった。いや、父親の株式投資がうまくいったのではない。誰がやっても株が儲かる時代だったのだ。
膨れ上がったバブルが崩壊すると、それまでのプラスが一気にマイナスに転じた。それをなんとか挽回しようとさらに投資に前のめりになった父親は傷口を広げた。
その挙句、会社と自宅を兼ねていたため、家屋敷と仕事のすべてを失い、それでも返し切れぬ多額の借金が残った。
家業の倒産により、多くの取引先に迷惑*をかけた。
金がないと「貧すれば鈍する」の言葉どおり、すべての考えが後ろ向きになった。明日のことも、1年後、10年後のこともわからない。これから先も悪いことばかりが起こりそうな気がする。
われわれ一家はその町に住んでいられなくなり、逃げるように東京都葛飾区の立石*に移り住んだ。
倒産騒動の渦中、妻には関わらせられないと思い、私から離婚を申し出て、実家に戻るように言った。
ひとり息子*は当時、大学の寮に入っていて、直接このゴタゴタを見せなくて済んだことが私の救いだった。
私はまだ大学生の息子と、老いた両親の3人を養わなければならなかった。
50歳で特段の資格もない私にはこの職業しか残されていなかった。

 

私が身の上話をかいつまんで話すと、
「運転手さん、余計なことを聞いてごめんなさいね。たいへんかもしれないけど、これからも頑張ってね」
お客はそう言って同情してくれた。乗り込んできたときには明るかった彼女が一転して沈鬱な表情になってしまった。
私はこんな話を聞かせてしまったことを詫びた。
お客の中には、タクシードライバーになったきっかけをしつこく尋ねてくる人もいる。人の不幸は蜜の味で、自分はそうではないと再確認をしたいのだろう。
「カゴに乗る人、かつぐ人、そのまたわらじを作る人」という言葉がある。世の中には職業がさまざまあることを表したものだが、職業ごとにその境遇に差があることもまた厳然たる事実である。
初日の営収は3万円ちょっとだった。
営業を終え、帰庫したあと、事務職員の山田さんに「最初のお客さんが女性*なのはいいことだよ。内田さんは運がいいんだ」と言われた。
初日、疲労困憊して帰庫した私を励まそうとしてくれたのだろう。疲れ切った心身に、そのやさしさが染みた。

 

*この手の質問
タクシードライバーになったいきさつを失敗談まじりに話すと、満足そうな反応をする人もいた。逆に本当に心配そうに親身になって聞いてくれる人もいた。その反応は十人十色でなかなか興味深かった。
*日用品、雑貨の卸業
メーカーから商品を仕入れ、個人商店、病院、学校などに納品していた。薄利の貧乏暇なしの商いだった。当時は得意先からの回収(集金)は盆、暮れ払いという習慣も残っていて、担保のない金貸しのようでもあった。
*零細問屋
店の規模が小さく、大量に商品を仕入れできないため、仕入れ値はどうしても大問屋より割高となる。末期には、スーパーのチラシ値のほうが、われわれの仕入れ値より安いという逆転現象さえ起こった。これでは経営は成り立たない。
*多くの取引先に迷惑
取引額の大きかった会社の社長に事情を話し、頼み込んで請求額(商品代金)、180万円を即振り込んでもらい、生活資金の一部にあてた。口座にその金額を確認したと同時に、明日からもしばらくは食べていけると心底ほっとした。今日明日の米代にも困窮していた。
*ひとり息子
茨城県にある国立大学に通っていた息子は当時、寮生活をしていた。
*最初のお客さんが女性
男性客よりも女性客の方が圧倒的にトラブルは少ない。特に年配のおばちゃんや、腰の曲がったおばあちゃんはほぼ安全だ。その代わり、彼女たちはまず短距離だ、一長一短なのである。