「生命のキーワード 動的平衡 - 福岡伸一」ちくま科学評論選 から

「生命のキーワード 動的平衡 - 福岡伸一」ちくま科学評論選 から

 

生命は、絶え間なく少しずつ入れ替わりながら、しかし全体としては統一を保っている。シェーンハイマーは、これが「生きている」ことの最も大切な側面だ、と考えた。彼の言葉によれば、生命とは「dynamic state」にある、ということ。私はこれに「動的平衡」という訳を当てた。絶え間なく動き、少しずつ入れ替わり変化し、しかも平衡状態、つまりバランスが保たれている。この状態にあるのが、生命というものだ。
動的平衡の定義は「それを構成する要素は、絶え間なく消長、交換、変化しているにもかかわらず、全体として一定のバランス、つまり恒常性の保たれる系」である。なぜ、常に流れているのに私は私、という自己同一性を保つことができるのか。これは今後の生物学の最も大きなテーマかもしれない。原理だけなら今でも説明することができる。
生命は、すべての物質や細胞が互いに関係し合い、連絡をとり合いながらかたちづくられている。細胞の中のタンパク質同士も、相補的に組み合わさり、バランスをとっている。ジグソーパズルのようなもので、一つのピースが捨て去られても、周りのピースによってそのかたちは記憶されているというわけだ。ピースの位置は、接するピースの存在によって自然に決まる。だから、ピースは絶え間なく入れ替わっていても、パズル全体の絵柄は変わらない。こういう具合に、生物は同一性を保っている。また、生命のピースはとても柔軟で、もし欠落があれば周りのピースが少しずつ動きながら欠落を補って、新しい平衡をつくり出そうとする。
おもしろい絵がある。三歳くらいの子どもに、「人間の絵を描いてごらん」というと、たいてい似たような絵になるのだ。顔に目、口、鼻をくっきりと描き、手足を頭にダイレクトにつけるから、教育用語では「頭足人」と呼ぶ。子どもらしく可愛らしい絵だが、私はここに驚きを感じる。それは、たとえ小さな子どもであっても、体は頭、目、口、鼻、手足というパーツ(部品)から成り立っていると見なしているように思えるからだ。このような表現は機械論的な生命観から来るものだろう。動的平衡から見るとこれはおかしい。
例えは、ブラック・ジャックみたいに非常に優秀な医者が、ある人から別の人に鼻を移植しようと考えたとする。彼のメスは、果たしてどれくらい深くまでえぐっていけば、鼻を取り出すことができるだろうか。「鼻」とは決して、頭足人の顔にある三角形のパーツではない。鼻の穴には匂いを感じる細胞があり、そこから神経繊維が脳に延び、さらにそれは脳から体の各部につながっている。おいしそうな匂いをキャッチしたら近づいて食べるという行動が生み出されるし、硫化水素みたいな嫌な匂いがすれば、生命にとって危険という信号として受けとめ、呼吸を止めてそこから逃げ出そうとする。この一連の働きが、「鼻」の機能だ。だから機能だけをとり出すことは、たとえブラック・ジャックでも不可能。メスはどんどん奥へ行かざるんをえず、結局は体全体が必要ということになる。
鼻や口、目、内蔵や手足も、子どもか絵に描くようならばばらばらのパーツで、工場でつくって寄せ集めればでき上がるように思えるかもしれない。しかし、生命の成り立ちはそういうものではない。部分が独立して一つの機能を受け持っているのではなく、多かれ少なかれ周囲とつながり、関係し協働しながら機能を発揮している。
だから、細胞は自分の位置や役割をあらかじめ知っているわけではない。DNAがあるじゃないかと思うかもしれないが、DNAには細胞の運命は書き込まれていない。プログラムではないし、命令でもない。単なるカタログブックなのだ。すべての細胞は同じカタログブックを持っている。その中から、そのときに応じた、自分に必要なものを呼び出しているだけだ。何が必要なのかは、上下左右前後の細胞とのコミュニケーションによって知らされる。
ではなぜ生命は、変化しながら同一性を保つという、複雑で危うい方法をとっているのだろうか。もしがっしりとつくっていれば頑丈だし、故障しても部品を交換すればよいだけだ。生命はなぜそうはいかないのか。
宇宙の大原則として「エントロピー増大の法則」があることを知っているだろうか。簡単に言えば、秩序あるものは必ず崩れる方向にしか時間は流れない。ということ。整理整頓した机の上も一週間すればぐちゃぐちゃになるし、入れ立てのコーヒーもぬるくなるし、熱烈な恋愛も冷める。すべて、エントロピー増大の法則に従っていることだ。非常に高度な秩序を保つ必要がある生命現象にも、この法則は襲いかかってくる。
そこで、生命は最初から頑丈につくるやり方をあきらめた。というよりも、いくら頑丈につくっても、結局は崩壊してしまう。固い物質でつくられ容易に壊せないような機械も建物も、時間の前に滅び風化しないものはない。だからむしろ、柔軟に、ゆるゆるやわやわにしておいて、エントロピー増大の法則に先回りして、自ら壊してつくる、というやり方が、理にかなっているのだ。生命は、自分自身を入れ替え新しくし続けることによって、ばらばらに崩れる方向に向かう力を排除し、エントロピーを増大させようとする追っ手からなんとか逃げている。この自転車操業が、生命現象が動的平衡であるゆえんなのだ。ヒトであれば、だいたい八〇年間くらいは絶え間なく入れ替え続けることで長らえている。そして、エントロピー増大の法則にとらえられたときが、個体が死を迎えるときである。