「御坂峠の碑(太宰治) - 井伏鱒二」現代日本のエッセイ井伏鱒二 から

 

「御坂峠の碑(太宰治) - 井伏鱒二現代日本のエッセイ井伏鱒二 から

 

甲州の御坂峠に太宰君の碑が出来た。一昨日、その除幕式があったので私も参列した。
場所は、山梨県南都留郡河口村御坂峠上、天下茶屋前方の尾根、バス道路からすぐ近くである。ここの風景について太宰君は「富岳百景」で次のように書いている。
「御坂峠、海抜千三百米。(中略)ここから見た富士は、むかしから三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽蔑さえした。あまりに、おあつらいむきの富士である。まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、(中略)私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。(後略)」
太宰君は観念的であるまいと全力をそそいだ人だから、そんなように書きたくて書いたものであろうことは致しかたがない。しかし御坂の富士に狼狽する人が、津軽富士を見て、よくも狼狽せずにいられたものである。 
さて、太宰君を狼狽させたその土地に太宰君の碑が出来た。このことは、「富岳百景」を通読した人には納得が行くだろう。この碑は、甲府市の新聞社長、野口二郎さんという人が、山梨県の人たちに呼びかけて出来たものである。
碑面には「富岳百景」のなかの「富士には月見草がよく似合ふ」という言葉を刻んである。
碑石は安山岩の自然石、横幅六尺三寸、高さ五尺八寸。この石は昇仙峡入口の荒川左岸にある片山という石切場から出た。台石も同じ場所から出た。
刻字の労を引受けたのは、甲府市元三日町の望月徳太郎翁である。珍しい気質の人で、石工の名前を入れようと野口さんの方で云うと、名前を入れると碑が荒れると答えたそうである。短期の間に見事に彫りあげた。文字は原稿のペン字を写真で拡大した。却って柔らかみが出たと思う。
太宰君は昭和十三年の秋から十一月まで、八十日あまりその茶店に泊って静養した。ところが除幕式で開会の辞を述べた私は、大勢の参列者の前で「太宰君は大正十六年の秋から冬まで、ここの茶店に泊っておりました・・・」と云った。それを人から指摘され、式がすんだ後まで気になった。
この日は富士山が雲にかくれていた。私たちは甲府に一泊して、翌日は富士吉田に出るために御坂峠を越えた。途中、碑を見るために再び峠の茶店に寄った。おかみさんが「昨日は、大変な人だったね。うちでも昨晩は、ぐったり寝た」と云った。「参列者は何人ぐらいだったろう」と聞くと、「四百人ぐらいだったろう。お蕎麦を二百五十人ぶん徹夜で支度したのに、半分の人にも行き渡らなかった」と云った。お蕎麦は山麓の河口村の人が参列者に接待したものである。
碑の台石が濡れていた。誰か若い女がやって来て、茶店で買った酒とウイスキーを、ここにそそぎかけたのだそうだ。いかにも勿体ない。「ほかにもまだ、酒を供えて行った者があったよ」とおかみさんが云った。「その酒、どうした」と聞くと、「誰か飲んだずら。空瓶になっていた」と云った。
峠をおりて、私たちは河口湖畔で食事をした。ついでに発動機船に乗って湖上に出ると、たちまち晴れて来て富士山が見えた。「やあ、碑が見える」と誰かが云った。実際に見えた。富士山と反対側の山に、嶺ちかくのところに豆粒ぐらいの大きさで碑が灰色に見えた。あるか無しかの程度だから、地元の人の目障りにはならないだろう。船が進むにつれて見えたりかくれたりした。