「わが野鳥たち - 山本周五郎」河出文庫 暗がりの弁当 から

 

「わが野鳥たち - 山本周五郎河出文庫 暗がりの弁当 から

私の仕事場は丘の上にあり、山葡萄と呼ばれるえびづる草や、野茨や、やまいちご、桑、蜜柑や夏蜜柑、野木瓜[あけび]、野生の無花果など、かなり多くの果実が生[な]る。そのためだろうか、四季を通じていろいろな野鳥がやって来る。私はあまりそういう方面の知識がないので、正確だと保証することはできないが、およそのところを記すと、うぐいす、尾長、小瑠璃[こるり]、黄せきれい、こじゅけい、めじろ、頬白、つぐみ、かけす、あおじ、ひたき、そしてそれらを襲うちょうげんぼう、などである。
尾長とつぐみとは親しいつきあいだ。仕事場はガラス戸しか閉めてないので、いつも外からは見通しなのだが、本を読むか、へたな原稿を書いていると、ガラス戸をこつこつ叩く音がする。私はよく表に鍵を掛けて仕事をするので、諸社の若い人たちは庭からおとずれることがある。みつかったかと思って眼をあげると、某社の人がにやにやしているので狼狽するが、そうでないときは尾長かつぐみの訪問なのだ。春は尾長であり、秋から冬にかけてはつぐみである。
わが仕事部屋には、しばしば優雅なる女性の客があるが、つぐみの訪問していることを告げたところ、その内の一人の女性はいそいそとし、焼鳥にして喰べてしまいましょうよ、とむきになって云った。またもう一人の女性は、ガラス戸に止まっている尾長を見せたとたん、明日あたし網を持って来て捉まえてやる、と宣言した。鳥には羽根があるんだぜ、と云いながら私は、これからは決してかれら、または彼女たちの訪問を女性には知らせまいと心の中で誓った。
K社のK君の説によると、尾長は人なつっこい鳥だそうである。飼いやすいし、人によく馴れ、いろいろふざけたこともしてみせるそうだ。K君は実際に飼っているのだそうで、こちらに反論のしようはないが、私のところのガラス戸におとずれてくるのを見ても、それが誇張でないことはおよそ理解することができた。
それが彼であるか彼女であるか私には判別ができないけれども、ここでは彼として、私の仕事部屋へ来ると、ガラス戸の外の桟に止まり、こつこつと嘴[くちばし]でガラス戸を叩く。私は某社の記者でないことにほっとし、ペンを置いて問いかける。
「なにか用かい」と私は云う。「恋人が欲しいんならここにはいないよ。よそを捜すんだな」
「道に迷ったのか」とべつのときは云う、「きみはどこへいきたいんだ」
尾長鳥は私を見、右を見る。少しもおちつかず、ガラス戸を叩いたり、上下左右に警戒の眼を怠らない。私は溜息をつく、道に迷っているのはおれ自身だ、と私は両手で眼を掩[おお]いながら思う。道に迷った、とんでもない道に迷いこんだと。そんなことを思っているのが通じるかどうか、尾長鳥は同情ぶかげに私を眺め、それから庭隅の藪へ飛び去るのであった。同情ぶかげにというのは、もちろん私のそのときの心理状態によるので、ときには小姑のような意地のわるい眼つきで、いいきみだ、せっかくじたばたしろ、とか、おまえさんなぞもうおしゃかだ、人間は引き際が大事なんだぜ、などと嘲り笑う(ように)感じられるときもある。
「どうにかしてくれないか」と心から呼びかけたことがある、「おれをどこかへ伴[つ]れていってくれないか、おれはもう降参だよ」

どんなに親しい友人にも云えないことを、相手が人事を解さない鳥だから云えるのであろう。尾長にはそういうところがあると思われるのだが、つぐみはいそがしそうで少しもおっとりしたところがなく、ガラス戸を叩いてもすぐに藪のほうへいったり、また戻って来てガラス戸の桟に止まったりするだけで、こっちの話しかけにはちっとも相手にならない。
「なぜそんなにちょこまかするんだ」と或るとき私は云った、「どうせ一生は一生だぜ、もう少しおちつけよ」
おちつかなければならないのは、私自身なのだ。一生は一生。私にも人生を二度生きることはできない。この一生を精いっぱい生きろ、という呼びかけであり、考えてみると自分自身に対する呼びかけだ、ということに気がつくのである。
うぐいすについては諸賢がよく御存じであろう。正月の中旬ころから鳴きだすが、幼稚園児のように清純で無知で、鶯らしい鳴きかたができない、恥ずかしそうに「ほ、ほ、きょきょ」などと鳴き、恥ずかしそうに黙り、暫くすると遠慮がちに、同じような鳴きかたをし、きまり悪そうに黙る。そうして、ようやく鶯らしい鳴きかたがでかるようになると、どこかへいってしまうのである。
いまはひたきの訪問が多い、色華やかな羽毛は、その小さな体躯には似あわない。鳴き声もせんさいで美しい。このあいだ写真家の青山青磁が来たとき、ちょうど庭先の枯れた朝顔の支え竹の上に止まったので、こころみにきいてみたところ、彼はすぐにひたきだと云った。尤[もつと]も彼にはひたきを飼っている友人があるので、他の野鳥はわからなくとも、この鳥だけはわかる筈であった。
こじゅけい、朝鮮鶉というこの鳥は、家族制度をまもっているらしい。しばしば庭にあらわれるが、秋が繁殖なのだろうか、母鳥がたいてい二三羽の雛を伴れてあらわれ、こまめに餌をついばむ。父鳥は警戒役で、休みなしに空の上や左右に注意を配っていて、自分が餌をついばむことは殆んど見られない。まことに身につまされるので、男というものは鳥類でも同じなのだなと思い、極めて親近感をいだくのだが、どう致しまして、妻や雛鳥を帰らせたあとだろうと思うが、仕事場の向うにあるぼさぼさした藪へやって来て、表現しようのない奇怪な声で私をからかうように叫びだす。百舌鳥といざこざの続いたことは、まえにいちどどこかで書いた。そのときの経験で、かれらには構わないほうがいい、相手になると面白がっていつまでもからかうが、こちらが黙殺し、なんにも聞こえないというふりをしていると、おそらく面白くもなし、はりあいもなくなるだろう。暫く知らん顔をしていると、つまらなそうに飛び去ってしまう。
人生にもよくこういうことがあるものだ、などと云うつもりはない。私は単純に、わが庭へ訪問して来る野鳥たちがあること、かれらにはそれぞれ個性があり、鳴きかたや飛びかたも一様ではなく、季節や天候の移り変りを見せてくれる、ということだけを記したかったのである。ちょうげんぼうという凶悪な鳥については、またの機会に書いてみたい。