(巻八)家を出て手を引かれたる祭かな(中村草田男)

朝の常磐線で、列車が北千住駅構内に進入してから急ブレーキをかけることがよくある。
北千住駅の上野方向にある踏切の遮断機が間に合わなかったための警報でホーム半ばで急停車となる。

先見えぬ坂の半ばに梅仰ぐ(青木弓子)

常磐線の上野と柏の間にはこの踏切のほかに踏切はない。
踏切ということばもやがては死語になるのかと思えば、一分二分の遅れに腹を立てるのも風流ではないな。

在庫に踏切の句がなかったので、ネットで探してみると、

踏切を一滴濡らす金魚売(秋元不死男)

があった。

天秤棒を担いでの金魚売りか?
一滴しかこぼさないと褒めているのか、一滴たらして未熟者と叱られているのか?
それは読み手に任されているのだろか?
そんなことは、どうでもいいことなのだろうか?
読み手、つまり私の低さなのだろうか。

方や、

ちちははの逝きし安心秋澄みぬ(岡本高明)

の句には解説があり、両親より先出つ親不孝をせずに済んだという病弱な詠み手の句と解説されていた。

私はまったくそのような読み方はしなかった。