「飲むか・飲まれるか 里見とん」 (中公文庫「私の酒」から抜粋)

酒は飲むべし、飲まれるべからず、という俗悪極まる言葉があるが、けだし真理には違いあるまい。真理であるなしに拘らず、言うは靖国、行うは難しで、なかなかそうキチリシャンといくものではなく、私も今もって時おり酒に飲まれて了う。
天地開闢以来、人智を以って考えだしたもの、古くは火から、新しくは原水爆のたぐい(漢字)に至るまで、数えきれないほど数多いなかに、自分でこしらえて置きながら、自分がとッちめられて、醜態を演ずる現象の最も著しいのが、金と酒とだ。あれば、これほど便利重宝なもののない金とはいえ、一旦ないとなったが最後、これほどまた人困らせなものもなく、一人で、二人で、家族づれの大勢で、この世におさらば、という結末へも、往々にして導かれる。世の中に金てふもののなかりせば、春の心は長閑けからまし、などとシャレノメした奴もあるが、断じてこれ、文無しの実感ではあり得ない。
ところで酒だが、こいつまた厄介な代物をこしらえて了ったもので、飲まれる奴ならそこらじゅうにウジョウジョいるけれど、さて飲む人間となると、めったには見かけられない。人間自身の手に成った金で、命を捨てる人間が出来るのに比べれば、ずうっと罪は軽いにしても、うまくてうまくてたまらない酒が、一生かかっても飲めないとは、なんたる馬鹿げた話か。併し、事実として、酒飲みとして自他ともに許す人種の大半が、酒飲まれであっても、決して酒飲みではないこと、その気で身辺を見廻したら、誰れしも承認しないわけにはいかなかろう。食うか食われるか、は一時はやり言葉になったくらい有名な映画の題だが、なんの変哲もない酒にも、飲むか飲まれるかの一大事が潜んでいるのだから恐れ入ったわけ。
じゃア、お前は、酒を飲むはいいが酔ッぱらうな、と言って叱る気か、などと、血相変えて、そうまア詰め寄りなさんな。天の美祿というくらいで、もとより酒で酔っていい気持になるように出来あがっている液体、いくら飲んでもほろッともしない、なんて特異体質の御仁は、真似ごとにも召しあがるには及ぶまい。酔うべし、酔うべし、大いに酔うべし。但し相手ほしさやでクダをまき、喧嘩ッ面でくってかかり、のたうち廻ってゲロを吐き、宿酔で頭もあがらぬなどの醜態は、飲んだ部か、飲まされた部か、大抵のアル中でも、そのくらいなけじめはつきそうなもの。飲むか飲まれるかの境界線は、曰く、言い難し。永年飲まれているうちに、おのずから自得すべき境地。叱言どころか、大いに飲むべし、シカシテ陶然と酔うべし、とお勧めする。
などとえらそうな口を利きながら、前にもすなおに白状いたしたとおり、二十歳になるやならずの年比(ごろ)から、半世紀ちかくになる今日まで、時たまにもせよ、私はやはり飲まれています。以って、いかに酒を飲むことのむずかしいかを知って頂ければそれで結構。金と違って、それほど露骨に命は奪らない。が、一生涯、飲まれッぱなしということは、精神的に、肉体的に、緩慢なる自殺行為である、と言って言えないこともなさそうだ。
そこへいくと女は、いや、これは失言、女性は、御婦人方は、もとより人智を以って成したる代物にあらずして、天地自然の産物ゆえ、金や酒と同日の談にならないこと勿論としても、彼等を彼方(むこう)に廻して、食うか食われるか、飲むか飲まれるかの一大事に、あたら青春を、いやいや一生を、緩慢なる自殺に費す者、金や酒の場合に比べて、敢てすくな(漢字)しとしない。この論理、主格を、男は、いや、これは失言、男性は、助平野郎どもは、と置き換えても、一向に差障りこれなく、何はしかれ、人の世には、いろいろと魔性の者の多きことかな。豈、慎まざるべけんや、と自戒、他戒、併せて白す、うんぬん斯のとおり。