「三日間 ー 周東酒日記 ー 河上徹太郎」 中公文庫 “私の酒” から

この三月下旬、私が郷里岩国に帰省している時に、東京の酒友が四人入り乱れて遊びに来て、この早春の城下町を三日間に亘って飲み荒らして帰っていった。
昨今『文藝春秋』で全国食べあるきを連載して好評を博している吉田健一が、今度は呉・広島を経て岩国に現れるから待っていろという約束は東京で既に出来ていた。やがて十九日午後行くという電報が来たので、待っていたけど、夕方になっても来ない。呉には我々の古い友人野々上慶一が松本建設の副社長としていて、今度の彼のお引受けをしているのである。そこで会社に電話して見ると、一時頃岩国へ行くといってお二人で車で御出かけになりました、という返事である。さては広島あたりで引っ掛っているのだろうという訳で、私は構わず一と風呂浴びて一人で飲み出した。すると二人はやっと八時頃、一杯機嫌で乗り込んで来た。「千福」の蔵出し三本を始め、大変なお土産である。遅くなった理由は私の想像通りであった。その夜はそれなりに飲み更かした。二人は、百年以上経った、黒光りのする私の祖父の書斎に枕を並べ、枕許に一升瓶を一本置いて寝ていた。
吉田健一は矢田挿雲の「太閤記」の愛読者で、それを通して吉川元春をかねがね崇拝していた。岩国へ行ったら元春の遺品を見せて貰いたいというかねてからの注文だったので、翌日旧藩主邸へ頼んで出かけて行った。吉川邸は、錦帯橋を渡り、城山という原始林に被われた二百米ばかりの山の麓、旧城趾の壕に沿ってある。案内されて座敷に通ると、元春と広家の兜、元春が尼子攻略の陣中で筆写したという太平記四十巻、広家の連歌が列べてある。面白いことに、この父子二代の違いで時代が戦国から徳川に変ったというのか、或いは更に二人の性格の違いか、兜も書も、一方は武骨な迄に豪放、一方は繊細とすらいえる対照である。
暫く眺めていた吉田君は、触っても宜しうございますか、と恐る恐る接待の人に聞いた所が、被って御覧なさい。とのことなので、彼は元春のを、私は広家のを被った。広家のは三尺位の高さで、鯰の形に彫った黒無地のものだった。それでいて被るとすっぽり頭へはいって、余りぐらつかないのである。序にもっと何か、という御好意に甘えて出して貰ったのが、広家が秀吉に貰った陣羽織、同じく彼が蔚山で包囲されていた清正を援軍を率いて救け出した時に、御礼に清正から貰ったという、とてつもなく大きな芭蕉形の馬印などであった。
帰途、車を廻して、山腹にある広家の墓に詣で、墓前にある木菟の手水鉢というのを見た。これは岩国名所の中で私の最も好きなものであり、広家の執着甚しかったという小話を聞くと、彼の趣味も後世から見ればやはり戦国の武将の豪放さを帯びていたことが分る。この手水鉢については吉田君が文春五月号に名文を書いている。
所でこの日の朝は又二人の客を迎えることになっていた。懐石の辻留の御曹子、通称ヒナ留君と、観世の御曹子で若い能役者後藤栄夫君とである。所がこれが又来ない。三人で吉川家から帰り、昼酒をチビチビやっていると、やっと二時頃二人が現れた。聞けば今晩一時京都から「あさかぜ」に乗るつもりで駅へ来て見ると、まだ汽車がはいっていない。そこで又引返して飲んでいるうちに、乗り遅れたので、朝の「かもめ」で来た、というのだ。この二人の弥次喜多はいつもこんな調子で、勝手にしろという外ないのだが、ただ困ることは、今夜の接待用に私は獲物の鴨と小寿鶏を東京から飛行便で取り寄せてあって、これをヒナ留君に料理して貰いたかったのである。然しこの心配も無用となって私は一と安心した。
それから夕食までの暇潰しに、他に行く所もないので、又城趾の公園を一と廻りして来た。夜はこの五人の外に土地の酒友三人を招き、八人の大宴会になった。今この地でうまいのは白魚とめばるであるが、七十九歳の私の老母の手料理を、この口のうるさい連中がうまいうまいといって食ってくれたのは嬉しかった。

(大評論家先生には大変ご無礼申し上げることになりますが、続けてコチコチと筆写するほどの文章が待っているわけでもありません。ここいらで打ち切りといたします。続きを読んで確かめたい方は中公文庫の立読みでどうぞ。)