「卒業生へのはなむけの言葉ー中島義道」新潮文庫“私の嫌いな10の人びと”から

私は「はなむけの言葉が大嫌いです。なぜなら、それは、普通、目前に開けている世界に船出する若者たちを「励ます」言葉で埋もれているからです。病、老、死をはじめ、人生の暗い側面に蓋をして、希望をもって積極的に生きる姿勢ばかりが強調されるからです。ですから、こうした言葉を口に出す立場にならないように、細心の注意を払ってきたのですが、二年前についに学科長にされてしまい、その任期の最後の最後に学内のパンフレット『学園だより』に卒業生に対するはなむけの言葉を書かざるをえなくなった。逃げ切れず、さんざん迷ったすえに、この機会だ、ボツになってもいいから「ほんとうのこと」を書こうと決意して、えい、やあ、と書いてしまった。
それがどんなものかは、あとで紹介することにして、誤解のないように言っておきますが、とはいえ私は巣立っていく若い人々を見て、人並みにいいなあと思いますし、彼らに呪いの言葉をぶつけたいわけではない。つまり、この世は誰でも知っているように、どんなに努力しても駄目なときは駄目だし、たえず偶然にもてあそばれるし、人の評価は理不尽であるし、そして最後は死ぬ.....こういうことも含めて人生だ、というあたりまえのことをそのまま言いたいだけなのです。ですから、何も難しいことではなく、例えば普通のはなむけの言葉の各文のあとに「どうせ死んでしまうのですが」というワンフレーズを付け加えるだけで、私の気持ちはかなり正確に伝わる。例えば、同時に掲載されたN先生の「個性に輝く人生の門出に向けて」と題するはなむけの言葉を、私の趣味にかなうように「修正」すれば次のようになります。

ご卒業ご修了おめでとうございます、どうせ死んでしまうのですが。みなさんはこの人生の新しい展開に、やや不安は抱きつつも、大きな希望に胸膨らませているいることでしょう、どうせ死んでしまうのですが。 ......幸いみなさんはこの電通大で「個性をかたちづくる」一つである専門性を手に入れました。将来を見据えて、これを大きく育てるとともに、みなさんの内なるもの(まだ自覚できていないかもしれませんが)を引き出し、ますます自己の個性化に拍車をかけてほしいと思います、どうせ死んでしまうのですが。 .....社会にでると、かつて経験のない困難に遭遇することもあるでしょう。そういったときこそ、みずからの個性を見失うことなく、困難を糧として、大きく成長する機会にしてほしいのです、どうせ死んでしまうのですが。何年かの後に、逞しく成長した皆さんの笑顔に会えれば、これほど喜ばしいことはありません。今後の健闘を切に祈ります、どうせ死んでしまうのですが。


さて、不思議にもボツにならなかった私のはなむけの言葉は次のものです。これが、諸先生の勇ましいはなむけの言葉に取り囲まれて掲載されているのは、まさに計算どおりで、その「絶景」にうっとりするほどです。


学生諸君に向けて、新しい進路へのヒントないしアドバイスを書けという編集部からの依頼であるが、じつはとりたてて何もないのである。しばらく生きてみればわかるが、個々人の人生はそれぞれ特殊であり、他人のヒントやアドバイスは何の役にも立たない。とくにこういうところに書き連ねている人生の諸先輩の「きれいごと」は、おみくじほどの役にも立たない。
振り返ってみるに、小学校の卒業式以来、厭というほど「はなむけの言葉」を聞いてきたが、すべて忘れてしまった。いましみじみ思うのは、そのすべてが自分にとって何の価値もなかったということ、なぜか?言葉を発する者が無難で定型的な(たぶん当人も信じていない)ことばを羅列しているだけだからである。そういう言葉は聞く者の身体に突き刺さってこない。
だとすると、せめていくぶんでもほんとうのことを書かねばならないわけであるが、私は人生の先輩としてのアドバイスを何ももち合わせおらず、ただ私のようなになってもらいたくないだけであるから、こんなことはみんなよくわかっているので、あえて言うまでもない。これで終わりにしてもいいのだけれど、すべての若い人々に一つだけ(アドバイスではなくて)心からの「お願い」。どんな愚かな人生でも、乏しい人生でも、醜い人生でもいい、死なないでもらいたい。生きてもらいたい。


後日談。これはかなり評判がよかった。少なからぬ学生や先生が、「中島先生の文章がいちばんおもしろかった」と言ってくれましたし、中には「ほんとうのことを書いているのは中島先生だけだ」とさえ言ってくれる人もいました。ただそう言うだけの人、そして自分は依然として因習と慣習にがんじがらめになって言葉を発している人、そういうずる賢く不誠実な人に正確に矛先を向けて、私は書いているのに!