1/2「火に追われてー岡本綺堂」岩波文庫“日本近代随筆選ー2”から

1/2「火に追われてー岡本綺堂岩波文庫“日本近代随筆選ー2”から
 

なんだか頭がまだほんとうに落ち着かないので、まとまったことは書けそうもない。
去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳の年に日本橋安政の大地震に出逢ったそうで、子供の時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみ込んだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事が出来ない。少し強い地震があると、又そのあとに揺り返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはり何(ど)うも落ちついていられない。
わたしが今まで経験したなかで、最も強い地震としていつまでも記憶に残っているのは、明治廿七年六月廿日の強震である。晴れた日の午後一時頃と記憶しているが、これも随分ひどい揺れ方で、市内に潰れ家も沢山あった。百六七十人の死傷者もあった。それに伴って二、三ヶ所にボヤも起ったが、一軒焼けが二軒焼けぐらいで皆消し止めて、殆ど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後には鎮まった。三年まえの尾濃震災におびやかされている東京市内の人々は、一時仰山におどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちにそれもおのずと鎮まった。勿論、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものではあったが、兎もかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生れてから初めてこれほどの強震に出逢ったので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから上野へ出て、更に浅草へまわって、汗をふきながら夕方帰って来た。そうして、しきりに地震の惨害を吹聴したのであった。その以来、わたしに取っては地震というものが、一層おそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになっ
た。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
こういう私がなんの予覚も無しに大正十二年九月一日を迎えたのであった。この朝は誰も知っている通り、二百十日前後に有勝の何てなく穏かならない空模様で、驟雨(しゅうう)がおりおりに見舞って来た。広くもない家のなかは忌(いや)に蒸暑かった。二階の書斎には雨まじりの風が吹き込んで、硝子戸をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸をしめ切って下座敷の八畳に降りて、二、三日まえから取りかかっている週刊朝日の原稿をかきつづけていた。庭の垣根から棚のうえに這いあがった朝顔糸瓜(へちま)の長い蔓や大きい葉が縺(もつ)れ合って、雨風にざわざわと乱れてそよいでいるのも、やがて襲ってくる暴風雨を予報するように見えて、わたしの心はなんだか落ちつかなかった。
勉強して書きつづけて、もう三、四枚で完結するかところへ、図書刊行会の広谷君が雨を冒して来て、一時間ほど話して帰った。広谷君は私の家から遠くもない麹町山元町に住んでいるのである。広谷君の帰る頃には雨もやんで、うす暗い雲の影は溶けるように消えて行った。茶の間で早い午飯をくっているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさし込んで来た。どこかで蝉も鳴き出した。
わたしは箸を措いて起(た)った。天気が直ったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先へ出てまぶしい日を仰いだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている階子段(はしごだん)を半分以上も昇りかけると、突然に大きな鳥が羽搏(はばた)きをするような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端にわたしの踏んでいる階子がみりみりと鳴って動き出した。壁も襖も硝子窓も皆それぞれの音を立てて揺れはじめた。
勿論、わたしはすぐに引返して階子をかけ降りた。玄関の電灯は今にも振り落とされそうに揺れている。天井から降ってくるらしい一種のほこりが私の眼鼻にしみた。
地震だ、ひどい地震だ。早く逃ろ。」
妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、沓ぬぎから硝子戸の外へ飛び出すと、碧桐(あおぎり)の枯葉がぱさぱさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。女中も裏口から出て来た。震動はまだ止まない。わたしたち真直に立っているに堪えられないで、門柱に身をよせて取り縋(すが)っていると、向うのA氏の家からも細君や娘さんや女中たちが逃げ出して来た。わたしの家の門構えは比較的堅固に出来ている上に、門の家根が大きくて瓦の墜落を避ける便宜があるので、A氏の家族は皆わたしの門前に集まって来た。となりのM氏の家族も来た。大勢が門柱にすがって揺られているうちに、第一回の震動はようやく鎮まった。ほっと一息ついて、わたしは兎もかくも内へ引返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって窺うと、棚一ぱいに飾ってある人形はみな無難であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王がうつ向きに倒れて、その首が悼ましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。
と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起ったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取り縋った。それが止むと、少し間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。A氏の家根瓦がばらばらと揺れ落とされた。横町の角にある玉突場の高い家根から続いて震い落とされる瓦の黒い影が鴉の飛ぶようにみだれて見えた。
こうして震動をくり返すからは、おそらく第一回以上の烈震はあるまいという安心と、我も人も幾らか震動に馴れて来たのと、震動がだんだんに長い間隔を置いて来たのとで、近所の人たちも少しくおちついたらしく、思い思いに椅子や床几や花莚などを持ち出して来て、門のまえに一時の避難所を作った。わたしの家でも床几を持ち出した。その時には、赤坂の方面に黒い煙がむくむくとうずまきあがっていた。三番町の方角にも煙が見えた。取分けて下町方面の青空に大きい入道雲のようなものが真白にあがっているのが私の注意をひいた。雲か煙か、晴天にこの一種の怪物の出現を仰ぎみた時に、わたしは云い知れない恐怖を感じた。