「暗い酒ほど美味いのだーなかにし礼」中公文庫“私の酒”から

「暗い酒ほど美味いのだーなかにし礼」中公文庫“私の酒”から
 

歌書きという仕事をやっていて、一番酒の美味いときは、なんといっても、気に入った歌の出来上がったあとに呑む酒である。
たった今書き上がった、この世の誰一人として未だ知らぬ歌を、くりかえしくりかえし、くちずさみながら呑む酒は体のすみずみにやわらかくしみこんでゆく。私は酒が自分の体にしみこんでゆくがごとくに、自分がたった今書き上げたこの歌が世の中のすみずみにまで浸透していくことを夢みる。これはまたなんとも言えない甘美な戦慄をともなった快感である。正直に言うなら、この瞬間が最高の快感であって、実際に歌が街にながれる頃になってみると、もう〈この歌〉に関する熱はさめていて、ほかの仕事に心うなされているせいで、「ああそうかいな」くらいの気分で、さほど感動もしない。いや最初の頃は、もちろん欣喜雀躍していたのだが、段々年をとるにつれ、経験を重ねているうちに年増芸者みたいに、多少のことでは動じなくなったのだ。
そんな年増芸者でも、やはり、歌の出来上がった瞬間というものはまた格別である。この世に何か生み落としたような満足感がある。
ただ、私たち流行歌の作詞家作曲家というものは、ただ書いて作品が仕上がればそれで良いという仕事ではない。それがヒットして街にながれ、人の心を動かし、人の思い出にのこり、しかも、いい歌だとほめられなくてはならない。それが何より重大問題なのだ。
だから、歌が書く上がったとき、果して、この歌がどこまで遠く翔んで行ってくれるのか、実に心もとないのだか、その心もとないわが想いを酒につつんであたためる作業がどうしても必要なのだ。
「お~い、仕事が終った!ビールもって来い!」
というような明るい酒にならない。たった一人、冷や酒などをグビリグビリやりながら、黙々と、肴もなしに呑む。暗い酒だ。心は武者ぶるいしているし、自信にみちみちているのだが、傍目にも、自分で自分を見てもやはり暗い酒だ。
こんな歌を書いてしまった自分、その恥らいと言い訳と開き直り、この歌を取り囲む環境、過去の失敗例、成功例、それらのことを考えると、とても明るい気分で呑めたものではない。どうしても、グビリグビリ、黙々と、暗くならざるをえないのだ。
やがて、酔いがまわって来て、ふんわり身も心も浮き上がるようになって来ると、心配事のほうは彼方の世界へ押しやられ、自信だけが.....いや自信なんかないが、要するに、どうとでもなれ! といった気分になって来る。その時初めて、酒っていいなと思う。そして、この気分になったとき、私の仕事は終るのだ。
歌を書くという仕事は、助走には大変時間がかかるが、車のターボエンジンではないが、停止したあとにも相当の時間がかかる。これはまあたぶん、歌書き特有の興奮状態ではないかと思う。ほかの、もの書きで、こんな興奮とエネルギーを短時間のうちに必要とするものはないように思える。二時間思いつめると、二キロやせる。本当だ。そして、この興奮がやって来ないときは、決して歌は書けない。だらだら歩きながらや、適度の走りのような精神状態では歌は書き切れない。で、いつの間にか、ペンが走り始めているとき、心は全力疾走しているのだ。
机の上に触れている手が汗ばんで来る。部屋の温度がやけに暑くなる。
そうなって来て初めて、やっと、人の心を多少でも動かすような“ひとくさり”がペンの先からポトリと落ちる。
私は、夜の街に出ることは好きだから、銀座でも、お茶屋でも酒は呑むが、ひと歌書き上げたあとの、反芻のときに呑む、孤独な、暗い酒ほどに美味いものを、私は知らない。歌一曲を太刀のごとく畳につきさして、世の中と対決しているような、ちょっとした緊迫感があるのだ。