「ある酒の味 - 遠藤周作」中公文庫 ”私の酒” から

千九百五十年の七月五日、小雨がふっていた。その小雨のふる横浜の波止場に白い外国船が横づけになっていて、白服をきた船員が次々とさん橋を登ってくる客を愛想よく迎えていた。
この白い船はマルセイエーズ号といって、その日からぼくたち日本青年四人を乗せて、遠いマルセイユまで運んでくれる手筈になっていたのである。
洋行といえば聞えはよいが、本当はそんな立派なもんじゃなかった。
戦後まだ間もない時で、はじめて留学生が四人も外国に出かけるという計画だけはよかったのだが、いざパスポートをとり、半年かかって仏蘭西からヴィザ(入国許可証)をもらっても、かんじんの旅費が我々には調達できなかったのである。
東京駅ちかくの外国船会社に行って問いあわせると、マルセイエーズ号の船賃は一等が数十万円、一番やすい旅客(ツーリスト)クラスでさえも二十万円であるという。留学の条件は向うの生活費、学資は面倒みるが渡航費だけは自分で支払えというのであったが。。。。我々留学にきまった四人の男のうち誰一人として最低の二十万円さえ作れるものはない。
「ダメなんです。。。。みんなアルバイト学生なんですから」ぼくらがそう言うと、
「困ったわねえ。。。。」
今でも憶えているがこの船会社にいた一人の仏語のとても上手なタイピストのお嬢さんが - たしか水谷さんとかいったが。。。しばらく小鳥のように首をかしげて呟いた。
「五万円の部屋があるんだけど。。。。」
「五万円」こちらは砂漠の中で水をみつけたようだった。
「そりゃいい。どんな部屋です。五万円なら結構です」
「いつも海のみえる碧い部屋よ。。。。」
いつも海の見える碧い部屋というイメージはぼくらの心を甘くやさしくゆさぶったのである。白鴎がとびかい、碧い海がいつもみえる船室。まるでボードレールの詩句にでもありそうじゃないか。
そしてぼくらは先輩、知人を駆けずりまわり、ともかくこの五万円の金額を手に入れたのだった。
そして千九百五十年の七月五日、その先輩、知人に見送られて、颯爽とさん橋をのぼり、船員に切符をみせて、案内を乞い、(海のいつもみえる碧い部屋は何処)カタことの仏語でたずねたのだった。
と、船員はうすい笑いを頬にうかべ、
「リャンポタン、アンポンタン」
まあそんな風にこちらの耳にきこえる何やらワケのわからん仏蘭西語で答え、指で遥か向う、ちょうど船荷をおろしている三等甲板を指さしたのである。
部屋は部屋ではなく、それは船荷をおろした船倉の一部であって、ちょうど吃水線より以下になる穴底だったから、たえず碧い海の中にあることになる。つまり海のいつもみえる碧い部屋とほこの四等のことだったのだ。のみならず、そこには異様な臭気がただよっていた。我々がおそるおそる、その船倉におりると、うす暗い内部の床に、褐色のくろ光りのした裸体のアフリカ人が毛布を腰にまきつけ、二、三十人ごろごろとねそべっていた。我々は仰天して甲板をかけのぼった。中には顔に白い入墨をしている黒人もいたようだった。
「お前、神戸までに食われるんじゃねえか」
見送りにきてくれた先輩の一人、柴田錬三郎氏までがそう言ったひくい声を今でもぼくははっきりと憶えている。
誰かが早速、調べてくれた報告によると、このアフリカ人たちは仏印における外人部隊の兵士たちで、日本の戦犯を護送して横浜まで来た帰りだということだった。船倉にぼくらがおりた時、彼等の眼が異様に光ったのが怖ろしかった。
「どうする」
「どうするって、今更仕方ないじゃないか」
我々が懸命になって相談している間に出発を告げるドラがなりはじめた。見送りにきてくれた先輩、友人たちも気の毒そうな顔をして船を降りていった。
やがてゆっくり船が動きだし、海鳥がかなしい声をたてながら甲板の上をまい、向うの埠頭で見送り人の影も一握りの砂のようにかすかに遠くなってしまった。甲板にたった我々の頭に霧のような雨が容赦なく降りそそいでいた。
こわかったけど降りるより仕方なかった。ぼくを先頭にして三人の留学生は垂直な鉄のはしごをおりると、毛布を体にまいたアフリカの兵隊たちはねそべったまま、眼を光らせてこちらの一挙一動をみつめていた。
「ベンジョ、どこでしょうか」
ぼくは必死に片言の仏語でその一人にたずねた。しかし相手は仏語がわからぬのか、黙っていた。やがて彼等のうち特に体の大きい男がゆっくりとあらわれて、向うも下手な仏語でたずねた。
「どこに行くのか」
「フランス、勉強、留学生」
彼はうしろをふりかえって仲間にそれを説明した。すると仲間たちは「アガアガ」とか「サンバ」とかぼくらにはわからぬ発声をだして肯いた。やがてその一人がアルミのコップに半透明なドロッとした液体を入れて、ぼくに匂いをかがせた。強いアルコールだった。彼はその半分を飲むと、ぼくにさしだして、身ぶりで飲めとすすめた。
白状すると気持わるかったが、ぼくはそのアルミのコップを口につけて思いきって飲んだ。強烈な酒だった。アフリカの兵士たちは笑い、それから急に親愛感を示して煙草をくれたり、麦酒の瓶を出してくれたりした。
そしてぼくは彼等と船倉の中で生活を共にして彼等が心やさしい大人であることを学んだ。だが彼等のくれたあのアルミの強い酒の味は今日も憶えているが、二度と飲んだことはない。。。。