(巻十六)今何をせむと立ちしか小鳥くる(ふけとしこ)

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8月23日水曜日

今朝はNYTの医師による自死幇助の記事を興味深く読んだ。
その一節に、
He has devised a process for his patients that not only adhere to the letter of the law , but goes far beyond it.
があった。
“adhere to the letter of the law”
が正確に理解できず、ネットに尋ねた。
「法律条文に拘泥(こうでい)すること
」とのお告げであったが、今度は拘泥の意味が解らない。拘泥を調べたら、「ごだわる、執着」と云うことのようだ。
その後、昼休みに志賀直哉の「城の崎にて」をコチコチしていたら、

或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。単に出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。

と云う文章があり、ここでも拘泥に出くわした。どうもすっきりと落ちない。

蜂の巣を見つけ小声となりにけり(高倉和子)

その後の一日はくだんの通りである。

相生橋は思った通りの美しい橋であった。

文庫を二冊買った。一冊は昭文社の都内地図である。これから色々なところを徘徊するにあたり、あった方がやはり良かろうと出掛けに浜松町の文教堂で買い求めた。
柏に住んでいた頃は東京の地図を買うのを何故か躊躇っていたが、今は都民だからか、すんなりと買えてしまった。狭量と云えば全く狭量である。
二冊目は月島のもんじゃ通りのほぼ中央にあった相田書店と云う間口一間半の小さな、以前はどこの町にもあったような、本屋さんで買った 「遠野物語」 である。
ビストロ化してしまった、来店した有名人の色紙を店頭に貼りまくっている、くそ面白くもないもんじゃ屋が幅を利かせている通りにあって、昔はこう云うお店が並んでいたのだろうと思わせる佇まいの本屋さんであった。
果して 「遠野物語」を読み切れるか?自信はあまりない。

湯婆などむかしむかしを売る小店(杏田郎平)