2/2「棋聖・名人を語る - 呉清源」日本近代随筆選1 から

2/2「棋聖・名人を語る - 呉清源」日本近代随筆選1 から
 

秀甫が八段で終って名人を望まなかったということについて、このようなまことしやかな話をする人があって、私は驚いたことがある。その話というのは、名人になると、いろいろ格式があって、それまでのように思うように碁が打てず、第一、収入の点も違って来るから、それだけの理由で秀甫は名人にならなかったのだというのである。おかしな話である。明治という時の碁界は、まだまだ今ほどは盛んでもなく、なにかにつけて不便の多かったこととは思うが、しかし秀甫にしてみても、ただ名聞だけで名人になろうなど思っていなかったに違いない。

秀栄が秀甫と十番碁を打って、それに負越したために、本因坊を譲り、自分は小笠原島へ刎頸(ふんけい)の友であ る朝鮮の 志士金玉均を訪ねて行き、その島で布石を一万局つくり、それが出来上ってから秀甫に一矢を酬いるつもりであったのが、帰って来ると、秀甫八段はいくばくもなく歿くなってしまった。その時の秀栄名人の気持も、恐らくは元丈を失った算知の心に通ずるものがあったろうと思われる。

一万局の布石をつくるということはなかなかのことである。勝ちたいという気持などだけでは成し得難いものであろう。勝負の鬼神が目を怒らせ羽ばたいていなけらば、そのような熱情はもてる筈がない。私などは暢気で不精なせいか、とうていそのようなことは思いも及ばないことである。丈和のつくった『国技観光』という有名な本があって、その序文に「(原文は漢文)」(師は之を弟子に授くるを得ず。弟子は之 を師に受くるを得ず。数(すう)の其の間に存する有り。)と言っていることをよく考えてみると、結局は碁の世界も、常に自分を新しいところに置いて、自分を空しくしていなければならないことで、一万局の布石をつくるその作り手が秀栄名人であったということに、この話の教訓がある。

この間、といってももう十年にはなるが、野沢竹朝(ちくちょう)先生がこの一万局の布石を或る所で見たといい、今年歿くなられた久保松先生がその話を私にして下さったが、その一万局の布石の中にも、黒の必勝とはゆかず、白の面白い碁があるというに至っては、「(原文は漢文)浩(ひろ)きや其の涯(はて)無きなり、眇(はる)けきや其の測らざるなり。」という『国技観光』の序文の一節が頭の中に泛(うか)んでくる。

碁風というものは、勝負どころと、変化の岐(わか)れと、捌きと、攻めと、凌ぎという風な読切ることの出来るところと読切ることの出来ないところとの境の間一髪のところに現われて来るものであるが、そのような碁風から考えてみると、丈和名人の碁風は、力が強く、読みが深く、劫(こう)を至るところにつくって無理やりにも向うを負かしてしまうという風に、私などから考えると、唖然としてしまうほどの力を持っている。また棋聖秀策は、がっちりとしていて、細かい碁になると非常に強く、ヨセなどは正確無比である。

歿くなられた本因坊秀哉(しゅうさい)名人の逸話を聞いたことがある。或る日、野沢竹朝先生が名人との対局に - いや早碁であったかも知れない - 意識して秀栄名人の碁風を真似て打ち進んでゆくと、秀哉名人が「危ない秀栄だな」と言われたといい、その碁が済んで、野沢先生が傍らの人に「人の碁風などを真似ようとして真似るのはいけないことだ」と冷汗をかきながら言われたという話である。それなどは、碁風というもののありどころをはっきりと示していて、とうていつけ焼刃では駄目なことが思われる。碁風というものは、結局は、自分のからだに沁み込んだ体臭のようなものであり、自ら滲み出て来るものでなければならない筈である。

よく、昔の名人の碁を並べてみると、まことに作戦が見事であり、雄大なものがあるといい、今の碁はこせこせしていて、芸が細かく、地に辛く、さっぱり面白くないと聞かされることがある。しかし、昔の名人が生きていた頃は、相手になる者の技が低く、棋聖道策にしろ、名人道知にしろ、また丈和にしろ秀和にしろ、いずれにしても力が違う無理も利き、雄渾(ゆうこん)な作戦も、壮大な計画も立てることが出来たであろうが、今のように、お互いの技倆が近く、髪の毛一筋の違いしかない優れた人達を相手にして闘わなければならない時には、毛ほどの無理さえ通らない。ましてそんなに雄大な作戦を立てて相手を自分の畑に引入れるというようなことは出来ない相談で ある。だから今の碁が理論に走り、地に辛く、芸の細かさをもったとしても、それは時代のためであり、決して不思議なことではないと思う。

碁を検べるということは、結局は自分の心を突きとめることで、自分のあり方が低いか高いか、今の己れの技の強さ弱さを測るためにする苦しい自分との闘いに過ぎない。だから、家の者などが、碁を検べている時の私を怖いと感じても、私はただ苦笑に紛らしてしまっている。

西荻窪の母親の許にいた時よりは、母の手を離れて中野に住み暮しはじめてからの私の方が、碁を検べる時が多くなった。碁を検べていると、碁盤の上に母親のやさしい顔が泛ぶ。曽(かつ)てどこかで書いたように、碁盤の中から故郷の匂いが湧き上って来るせいかも知れない。