「工夫をこらし楽しみながらー橋之口 望」文春文庫 11年版ベスト・エッセイ集

「工夫をこらし楽しみながらー橋之口 望」文春文庫 11年版ベスト・エッセイ集
 

日記は皇国少年団時代から、戦後の一時期を除いて書いてきた。昭和16年12月8日には、東亜放送ラジオ(台北)の大本営発表、「太平洋戦争開始」のことを書いた覚えがある。
翌日から大本営発表に胸をときめかせて書いた。20年になると爆撃が激しくなり、大戦果の発表と戦況に違いのあることを、そっと加筆した。引き揚げるとき、最後の日記帳をリュックサックの底に入れていたら、基隆港の検問所で中国兵に見付かって怒鳴られ、没収された。
戦後、勤め人時代は、週に2~3日印象的なことを書いた。
初めての俸給日であった26年4月16日を開いてみた。「トルーマン大統領に解任され、米国に帰国するマッカーサー元帥を霞ヶ関で 見送った。 元帥はパイプをくわえ、野戦服に勲章もつけず、かつての勇姿ではなかった。広島と長崎を訪ねなかったのは残念だ」と書いている。
半世紀近く働いて、余生に入った平成11年からは、新潮文庫版の「マイブックー〇〇年の記録ー」という日記を愛用している。書くことは孫たちの成長や2世帯のありふれた平凡な日常である。
月末には家族と時事のトピックを、年末には振り返った感想と反省を書く。読みかえすと、家族模様の中の自分が「サザエさん一家の波平」そっくりで面白い。
付記することもいろいろである。手紙、Eメールの受発信歴。エッセイのネタなど何かひらめいたことがあれば朱書する。
また、読み、聞きした名言、名句、昨夜の夢も記す。添付して挟み込むものが多い。
新聞記事、写真、絵はがき、チケットの半片、プログラム、外れた宝くじ。宅急便伝票の依頼人欄は切り抜き、漏らさず貼る。今年は45枚ある。お返しが大変だ。
年末になると扇形にふくれあがったマイブックになる。日記は自分の記録だから、表紙の著者の欄には大晦日に自署す る。こん な名著(?)がもう11冊にもなった。何冊まで書けるだろうか。
内容を一部ご披露しましょう。日記に書いていることは、出来事の他に、その日の思いを吐き出した随筆風のものである。ちょっと違うのは、「天気欄」の下にカミさんのご機嫌を4段階に分けて、数字(暗号)で記している。諍(いさかい)1、不機嫌2、普通3、上機嫌4と。カミサンは日記をまとめ書きしており、確かめたいとこがあると、日記を見せてくれとせがむ。カミさんが開いて首をかしげた。
「お天気の下の数字は何なの?孫の通知表のように、2と3が多いわね」と言った。返事に困った。思いつきで「健康メモで、1は体調不良、4は快調だよ」と言って切り抜けた。カミさんはとても心配顔をして「1が多いけ ど大丈夫なの?一度、医者に診てもらったら.....」としつこく迫った。
この暗号を始めたきっかけは、ある時、天気予報を聞かれたとき「明日は晴天だよ」と適当に答えた。後で2人で予報を聞いたら「東京は大雨」と報じた。カミさんは僕のいい加減さを厳しくとがめた。その日から、天気欄の下にカミさんのご機嫌の様子を数字で記すことにした。
わが家の天気も小春日和の日ばかりではない。カミさんの運勢欄にも目をとおし、「心を粗末にすれば一切が粗末となる。本日特に用心」とあった日など、先手を打つ。
暇にまかせて気象統計にヒントを得て、今年の喜怒哀楽の年間統計をとってみた。1が32、2が55、3が246、4が32、1と2では87、1と4が偶然、同数であ った。昨年と比較すると、1が少なくなっている。
老いてくると楽しく暮らすために、お互いに大目にみるようになってきたからだ。叱られるうちが花、叱る方も叱られる方も花なのだ。日記は過去の自分に会いに行くだけではなく、未来の自分との対話でもある。日記は反省も促し、感動のセンサーである。
11月22日は「いい夫婦の日」、昨年は偶然にも4であった。賢妻愚夫の我が家の天気も孫たちの通知表も「4と5」になるように気配りをしている毎日だ。
朝日新聞論説委員・加藤明氏の文章教室を受講したことがある。酒の肴に「妻の天気」のことを話した。丁度、死神問題で有名な夕刊の名コラム「素粒子」を執筆されていた。
08年1月10日付の「素粒子」の 第3段目に、
「妻のご機嫌を長年、天気印で日記に付けている初老の恐妻家あり。年重ねるごとに心遣い深くなり『晴天が続くよ』としみじみ」と紹介された。