(巻十七)うつし世の負目みな持つ夕端居(伊藤孝一)

イメージ 1

イメージ 2

1月14日日曜日

この辺りにもう米屋はない。
酒屋もなく“屋”で個人商店として生き残っているいるのは蕎麦屋と洗濯屋と煙草屋が一軒づつである。
米屋がないので、今日のブランチは、パック餅の磯部巻きとなった。
規格品のライスケーキは味気がないかと言うと、そんなことはない。 初めの形はおなじでも膨れ方はそれぞれちがう。熱の当たり方がちがうから、上に一気に行く奴もいれば、横ににょろっとしまりのない膨れ方をする奴もいれば、尻から膨れてひっくり返るドジな餅もいる。いろいろ居るのは世の中と同じである。そして膨れ方がちがうと食感がちがう。

餅二つ膨れ付きしを吉とせり(丸井巴水)

パック餅尻から膨れ転びけり(潤)

昨晩の残り物のスープと餅のブランチで息子五個、私が三個、細君が二個いただいた。

昨日今日と天野祐吉氏の随筆「広告のなかの銀座」をコチコチしている。氏は確か朝日に広告時評を連載されていて、NHKFM日曜喫茶室にもよくご出演されていたと記憶している。
以下はコチコチの一部であるが、謳い文句とはどういうことかを教えてくる文章である。

「東京・銀座・資生堂」というキャッチフレーズもすごい。広告の歴史に残るキャッチフレーズのなかでも、これはベストテンに入る名作ではないかと、前々からぼくは思っている。
リクツから言えば、ただ資生堂の所在地を並べただけという、ただそれだけのソッケない表現に見える。だが、「東京・銀座・資生堂」と、三つの言葉をつないでいる「・」は、点であって点でない。キラキラ光る一本の糸が三つの言葉をつらぬいて、ソッケない表現とは反対の豊かなイメージ空間をつくり出しているのだ。
このキャッチフレーズは、まず「東京」を売る。この場合の東京は、たんなる地名としての東京ではない。西洋化の拠点都市としての東京であり、「新しさ」のシンボルとしての東京である。
さらに、このキャッチフレーズは、そんな東京を冠詞にして「銀座」を売る。この場合の銀座も、ただの地名ではない。それは東京の新しさを凝縮したマチであり、浅草が「日本」の相続人なら、銀座は「西洋」の代理人である。

謳い文句も玄人が知恵を絞って作るから受けるのでしょう。

心太殺し文句を笑はるる(田中和行)