2/2「飲む場所(一部抜き書き)-吉田健一」中公文庫 私の食物誌 から

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2/2「飲む場所(一部抜き書き)-吉田健一」中公文庫 私の食物誌 から
 

例のジェームス・ボンドもので有名になった英国のイアン・フレミングは或る時それまで書いたものの著作権を十万ポンドで或る出版社に売って又しても新聞種になり、その際に友人の一人にそれだけ成功してどんな気持がするかと聞かれて灰を噛んでいるようだと答えたそうである。それはそうに違いなくて、炉端で火に当るのに一億円は掛らないし、道頓堀のおでん屋では一晩いて會て千円という金を払ったことがない。ただ一つ、人間には自分にどれだけのことが出来るか験して見たい欲望があるようで、それでフレミングも小説を書いて成功するということをやって見たのだろうが、それが出来ることが解った後はもとの杢阿弥で、或はその杢阿弥の方がもとのよりもいい に違いなく ても、それで再び問題は火だの酒だののことになる。兎に角そこにいつも又結局は戻って来るのであるから道頓堀のおでん屋という風なものがなくては困るので、それでこの店も有難い。
それはどこでもコの字型の卓子に向って酒が飲めればいい訳ではないからで、今ここで書いたような無駄なことを考えて時を過すのにも先ず店の空気がそれを誘うものでなければならない。それには第一に酒が旨くて肴もこれに釣り合っていることが必要であるのは勿論であるが、ただそれだけでは又その店に行く気を起すとは限らなくて、それではその空気はということになるとこれはそう簡単に言えるものではない。或はその店が繁盛しているということが一つの条件かも知れなくて、その場合は店の活気が幾分客までを浮れさせ、この浮いた感じがそこにいて時をたたせるのを助ける。併し繁昌していることのもう一つの功徳はそれで店の人達が一人の客にそう構ってはいら れなくなる ことで、それがひどくなってこっちの注文を聞いてもくれなくなるのでは困るが、こっちがして貰いたいことはしてくれて後はほうって置いてくれるのが一人で飲むのに一番適している。それが一人でなくても店の人達にちやほやされるのは一般に考えられているように嬉しいものではなくて、これは尤も一度でもそんな目に会ったことはないから単なる想像である。一般に考えられている程嬉しいものではないだろうと訂正して置く。
この道頓堀のおでん屋で出すおでんでは最近では茹で卵が好きになった。ただの茹で卵が銅壺の中で煮えているだけで、この店にはもっと知られた売りものがあるということであり、そう言えばそれを旨いと思って食べたこともあるような気がするが、ただ茹でただけの卵 の白身を通しておでんの汁が染み込んでいる味はいつ食べても間違いがない。一体に日本酒というものはそれ自体が実に凝った味のものであるから肴をそう念入りに選ぶ必要はないので、それで場合によっては塩だけでも味噌だけでも肴になる。併し逆に旨い肴は旨い酒がないとつまらないから妙なもので、例えば生牡蠣を酒なしで食べたらどんな味がするのかまだやって見たことがない。そう言えばこの間その道頓堀の店に行った時は牡蠣もあって、それが煮えたのを食べなければと思いながらとうとう食べなかったのは、これは酒の功徳ではなくて罪で、よくそうやって食べる方を忘れてしまう癖がまだ直らない。
こう書いているうちに又その店に行きたくなったが、ここは生憎のことに東京で今晩ぶら りとそこまで出掛けられないのはどうにもならない。恐らく今頃そこは大繁昌で卓子に向っている客の後に客が立ち、錫の大きな徳利から錫のおちょこに酒が注がれ、木の札が積まれ、銅壺は煮えくり返り、旨そうなものが中から掬い上げられていることだろう。聞けば東京に憧れている馬鹿がいるのだそうである。一体何に憧れているのか解らない。