「近代化百年の終わり(一部抜書き)- 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

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「近代化百年の終わり(一部抜書き)- 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から
 

「黄金の六十年代」

それにしても、われわれが問題にする日本の一九七〇年代は、それを生きた同時代人にとって、けっしてその意味がわかりやすい時代ではなかったといへる。「次は何をすべきか」といふ問ひかけには、そののち数年たっても答へが出なかったし、むしろ、この問ひが時代の劈頭を飾ったこと自体、明日についてのひとびとの困惑を示している点で象徴的であった。七〇年代は、いはば変化への期待はありながら、変化の具体的な手応へなしに始まり、ひとびとにとって、明確なリズムの感知し難い状態で幕を開けたのであった。
ひとつには、これは、それに先立つ六〇年代があまりにも印象鮮明な時代であり、誰の眼にも変化が強烈にめだつ時代であった、といふことの結果だともいへる。六〇年代は、「黄金の六〇年」とも呼ばれ「叛乱の六〇年」とも呼ばれ、その当時から多彩な命名に飾られた十年であったが、事実、それは国民にとってなすべき仕事の明快にわかっている時代であった。「経済成長」といふ課題は、いよいよその果実が眼に見える姿をとり始めるにつれて、それを推進する人にとっても否定する人にとっても、見まがひやうのない時代の中心主題になっていた。日本が第二次大戦の敗戦の孤立から立なほり、「もはや戦後ではない」といふ認識が拡がるとともに、「国際化」といふことが時代的 な課題として浮かびあがって来た。テレビが普及し、高等教育への進学率が高まり、新聞や出版が未曽有の好況を見せるのをまのあたりにして、ひとびとは急速に、「情報化」といふことが歴史の命令であることを感じ始めていた。
なによりも象徴的なことに、六〇年代は東京オリンピックの準備とともに始まり、大阪万国博覧会の計画とともに終ったことによって、時代の主題を祝祭のかたちで視覚化できる時代になった。ふたつの祭典を通じて、ひとびとは経済的な繁栄をことほぎ、「世界のなかの日本」を確認し、一日が賑やかに人工的な情報に満たされる生活を体験した。祭典といへば、この十年はまた暴力の祭儀ともいふべき学園紛争の頻発を見たが、この叛乱も結局は豊かな社会の否定的な反映にすぎず、しかも、社会の情報化によって増幅されていたことは明らかであった。そして、六〇年代の日本人にとっては、日常を生きる倫理的な指針も明白であって、まづは勤勉に働いて大量の商品を生産し、ついで それを大量に消費することが美徳とされたのであった。

「不確実性の時代」

これにたいして、一九七〇年代は時代を飾るはなばなしい標語もなく、時代全体の記念碑となるやうな祝祭もなく終始する十年となった。たしかに、新しい十年を予告する標語として、「猛烈からビューティフルへ」といふ流行語が聞かれたことはあったが、この感覚的なスローガンはかへって時代のつかみにくさを物語っていた、といへる。「猛烈」という形容詞は、まさに六〇年代の生産性と勤勉さをさして具体的であるのにたいして、「ビューティフル」といふ一語は、たんに何かしら猛烈ではないもの、といふ以上の意味を感じさせなかったからである。のちに、ひとびとはこのつかみにくさそれ自体を時代の特色として受けとり、をりから出版された本の表題を借りて、「不確実性 の時代」といふ言葉を流行させることになった。だが、ここでも、不確実性とは価値の相対化とか、偶然性の支配といった積極的な変化を意味するのではなく、漠然と、不透明で不安な時代の気分を示すにすぎないものであった。
やがて、日本は石油危機とドル・ショックといふふたつの事件に襲はれるが、皮肉なことに、この大衝撃はむしろ、七〇年代といふ時代の性格をますます消極的なものに見せることになった。国民は、これによって六〇年代の繁栄を脅かされたと感じ、もっぱらそれを防衛するといふ、後向きの姿勢で生き始めたからである。ひとびとの意識のなかで、七〇年代は六〇年代を延長するための時代となり、たんに過去を再現するために存在する時代となった。「省エネルギー」、「資源節約」といった古色蒼然たる標語が復活されたが、これはとうてい歴史の目標となりうるやうな理念ではなく、ただ一日一日を耐えしのぶためのかけ声にすぎなかった。ちなみに、最大の逆説といへるのは、日 本がこの防衛的な努力によってさらに経済的な飛躍を見せ、結果として、きはめて攻撃的に自国の国際的地位を高めてしまったことであった。明治以来、「西洋に追ひつけ追ひ越せ」を国是として来たこの国が、それさへも忘れて、ただ過去を守らうとしたときに西洋を真に脅かしたといふのは、皮肉といふほかない。いずれにせよ、記憶にあたひするのは、この七〇年代が日本の近代史百年のなかで、おそらくただひとつ、攻撃的な時代目標を何ひとつ持たない十年だったといふことである。
しかし、七〇年代の性格があれほど消極的な見かけをおびたのは、もちろんたんに、それが外的な経済危機によって覆ひ隠されたからばかりではない。じつは、より大きな原因は、この十年を特徴づける大部分の条件が、すべて過去に存在したものの消滅として、あるいは、その力の大きな減少として現はれた、といふことにあった。けだし、あるものが消滅するといふことは、ときにあるものが出現するより重大な意味を持つことがあつのだが、しかし、それが事件として眼に映る印象はとかく弱いものにならざろうえない。しかも、社会的な現象は、しばしばその内側から浸蝕されて静かに空洞化するものであり、その結果、実質の重みを失ったのちにもひとに変化を気づかせないことが 多い。歴史のなかで長く影響を残す変化ほど、むしろ短期的にはめだちにくい現はれ方をするものだが、七〇年代に起り、おそらく七〇年代を越えて後世に残ると思はれる変化は、まさにそのやうなものだったのである。