「必死の逃亡者 - 柴田錬三郎」ちくま文庫 文豪文士が愛した映画たち から

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「必死の逃亡者 - 柴田錬三郎ちくま文庫 文豪文士が愛した映画たち から
 

私は、むかしから、映画では、西部劇とギャング物を一番好む。この点では、街のアンチャンと趣向が一致している。「哀愁」だとか「黄昏のなんとか」というような題がくっついていると、絶対に観ない。で、西部劇とギャング物は、大半観ている積りである。西部劇の方には颯爽たるヒロイズムを求め、ギャング物の方には、トコトンまでの残忍性を求める。ところが、屡々(しばしば)、これが入れかわったりしていると、ガッカリしてしまう。就中(なかんずく)、ギャング物に、甘っちょろいヒロイズムがハバをきかせると、腹が立って、中途で席を立たざるを得ない。
ギャング物は、徹頭徹尾、残忍性が横溢(おういつ)していなければ、面白くない。したがって、頭のテッペンから趾(あし)の裏まで兇悪 な根性のしみわたっているギャングになり切れる俳優が登場することか、のぞましい。ジェイムス・ギャグニーとハンフリー・ボガードの両人なら、絶対信頼出来る。
私は、「必死の逃亡者」を観たら、もしかして、ワイラー先生が、ドタン場で、ボガードの悪党をして、安価なヒューマニズムに目覚めさせるのではないかとハラハラしていた。流石は、ワイラー先生だけあって、ボガードを悪党のままでくたばらせたので、ほっと安堵した次第であった。
「必死の逃亡者」は、ストーリイは、ごく単純である。平和な中産階級の家庭(主人・妻・娘・少年)へ、脱獄した三人組が押入って、恐怖のどん底へ追い込むが、とどのつまり退治されてしまうという話である。
面白いのは、被害者も加害者も追う警官 も、すべて必死になってあがきつつ、自分たちのことしか考えないエゴイズムを発揮することである。
主人は妻子を救うことしか考えず、ギャングは逃亡のことしか考えず、警官はギャングを殺すことぐらい屁とも思わぬし、警官は一家を犠牲にすることはやむを得ないとする。最後まで、観客をひきずる緊迫感は、これによって生ずるのである。
勿論、人物の出し入れのテクニックが見事だから、固唾をのませるのであるが、その各人の行動は、すべて、エゴイズムで裏打ちされているのである。もし、ボガート君が、途中で、少年に対して、いくばくかの慈悲心でも催したら、途端に、緊迫感は、日向の飴みたいに溶けたに相違ない。
ワイラーの物では、「探偵物語」に感服したおぼえがある。あれもま た、乾燥したエゴイズムを心憎いまで描出していた。それでいて一方では、ミイハアを狂喜させる「ローマの休日」の如きお伽噺を作ってみせるのであるから、吉村公三郎以下日本の一流監督たちが、尊敬する名匠として彼を第一に挙げているのも当然であろう。