3/3 「二つの自白(民ー後編) - 和久峻三」中公文庫 法廷生態学 から

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3/3 「二つの自白(民ー後編) - 和久峻三」中公文庫 法廷生態学 から

被告の中年男は、法廷で、「原告から二百万円を借りたのは間違いありません」という意味の答弁をしたのである。つまり、二百万円を借りた点について、被告は「自分の側に不利益な原告の言い分を真実と認めた」わけだ。要するに、自白したのである。
民事訴訟では、自白が成立した場合には、裁判官は、その自白に拘束され、それに矛盾した判決を下すことが許されないのだ。これを、「自白の拘束力」と法律用語では言う。
民事訴訟法二五七条に「裁判所ニ於テ当事者カ自白シタル事実.....ハ之ヲ証スルコトヲ要セス」とあるのは、その意味である。つまり、自白は、証拠を証拠を要せずして真実と認めるべきだ、と条文は言っているのだ。
わかりやすく言えば、自 白があっ た場合には、それを真実と認めなければならないのだ。それが裁判官への至上命令でもある。
自白があったのに、それに反する裁判をすると、その判決は上級審で破棄される運命にある。
これは、もっとも理解しやすい初歩的な自白の一例である。もっと複雑な例が沢山あるが、ここでは、ふれないことにしておく。
刑事事件では、被告人の自白があっても、補強証拠がなければ有罪にできないのに、民事訴訟での自白は、それとはまったく逆の取り扱いになっていることがわかるだろう。
なぜ、そうなるのか。
刑事事件では、起訴されている被告人が処罰を受けるかどうかの、人権にかかわる問題が審理の対象になる。下手をすると、無実の人間を監獄へほうり込む結果になるかもしれないのだ。
しかも、刑事事件では、原告側は、つねに国家機関である検察官なのだ。その一方、被告人は、裁かれようとしている一般人であり、捜査権もないし、権力ももたない。こういう力関係の相違を考慮して、刑事事件の自白は極めて慎重に取り扱われるわけだ。
ところが、民事事件は、私人間の争いであり、互いに対等な立場の自由人双方の紛争である。身柄を拘束されるおそれもない。
一方、刑事事件では、実体的真実の究明が目標であるが、民事事件では、それに対する要請は後退し、「形式的真実」が前面に押し出される。
「自分の側に不利益な相手方の言い分を真実と認める」ことが自白として、裁判官の事実認定を拘束するというのも、形式的真実の一つのあらわれである。
もう少し、民事事件の 自白についての話をしよう。
擬制自白」というのがある。自白はしていないが、当事者の態度からみて、自白したものとみなすていう厳しい考え方だ。
例えば、適式の呼出しを受けていながら、当事者本人なり、代理人なりが出廷せず、放置しておくと、相手方の言い分を真実と認めたものとして、自白したものとみなされてしまうのだ。(民事訴訟法一四〇条三項)
また、たとえ出頭したとしても、相手方の主張した事柄を明らかに争わない場合にも、これまた自白したものと見なされる。
このようにして、擬制自白が成立すると、やはり自白の拘束力によって、裁判官は、自白通りの判決をしなければならない。
仮りに、真実が、それに反したものであったとしても、自白のほうが優先し、そ れが真実とみなされてしまうのだ。
これも、形式的真実主義のあらわれである。
民事事件では、「訴訟スポーツ観」という考え方が支配するとも言われる。民事訴訟は、一つのゲームだというわけだ。だから、盗塁も許される。
「盗塁」とはどういうことか。
前にあげた二百万円の金銭貸借の事件を例にとってみよう。
訴えられた被告の中年男は、法律の専門家ではなく、人柄も正直だったものと見え、裁判官から答弁を求められたとき、こう言った
「確かに二百万円は借りました。そのことについて、先日来、何回も原告と話し合ったところ、十回の分割払いでお返しするという条件で折り合いがつきそうになりましたので、安心していたんです。ところが、とつぜん、訴状が舞い込みまして、驚 いておるところです。わたしとしては、借りたお金はお返しするのが筋だとは思いますが、いまのところは手元不如意で、全額一括してお返しすることができないような有様です。十回程度の分割払いなら、何とか金が工面できると思いますけど.....」
素人の被告が、ここで裁判官にのべた事柄は、法律的にみてつぎの三点に要約することができる。
被告が原告から二百万円を借り受けたことについては、自白がある。
被告は、分割返済の条件について、原告と何回か示談交渉を行った。
結局、示談は成立しなかった。
示談なり、和解なりが成立していたら、それを証明する証拠を被告が提出しなければならない。しかし、それが提出されなかったところからみると、示談なり和解なりはととのわ なかったのである。
何よりも、被告が「十回の分割払いで返済するという条件で折り合いがつきそうになったので、安心していたところ、とつぜん、訴状が舞い込んだ」という意味の答弁をしてことからみても、原告との間に示談なり、和解なりが成立しなかったことが、すでに明白にされているのだ。
原告が代理人を立てて、訴えを起こしたこと自体、示談交渉が決裂したことを意味している。
この点でも、裁判について素人である被告が、正直に自白している。
そうなると、あらためて、双方の間に示談なり和解なりがととのう見込みがあるかどうかが、裁判官の関心事となる。
ところが、法律専門家である原告訴訟代理人の弁護士は、「分割弁済の和解をする気持ちは毛頭ありません」と明白に 拒否したのだ。
そこで、裁判官は、やむなく、和解をすすめるのを諦めざるを得なくなり、判決を下すことによって、事件に決着をつけようとしたのである。
その結果、被告の全面的敗訴になった。
によって、被告は二百万円の借金をしたことを自白したのだから、自白の拘束力によって、裁判官としては、「被告は、原告に対し、金二百万円を支払え」という判決を下さなければならなくなったのである。
これを、一般人の眼からみると、正直な被告が「馬鹿をみた」という感が深い。
もし、被告に弁護士がついていたら、もっと違った様相を呈したことだろう。
被告本人が十回払いの分割弁済で二百万円の借金を返したい意向であったとしても、被告の委任を受けた弁護士は、原告が提出した訴状記載の事実を全面的に否認することだろう。
つまり「二百万円を借りた点は否認する」と一言、答弁すればよいわけだ。
すると、どうなるか。
原告代理人としては、その主張事実が否認されると、立証しなければならなくなる。
例えば、借用書であるとか、証人の供述とかによって、原告と被告との間に二百万円の貸借があったことを裁判官に納得させなければならない。
原告 側の手元に、そういう証拠があればよいが、もし、なかったとしたら....。
仮りに、証拠があっても、不充分なものであるかもしれない。
要するに、被告側に立った弁護士が、二百万円を借りた点について否認することによって、原告側に立証責任が生じる。
それによって、どういう証拠を、原告側が手にしているか、手の内が被告側にわかるのだ。
もし、原告側の証拠が稀薄であれば、猛然と被告側の弁護士は争ってくるだろう。
その結果、原告側の証明は立たず、原告の敗訴に終る可能性も大いにある。
仮りに、そうはならなくても、すったもんだしているうちに、原告側も訴訟の先行きに自信を失い、弱気になるだろう。
そこにつけこんで、被告側が和解に持ち込むという手がある。
結局 のところ、被告本人が望んだ通り、十回の分割払いという有利な条件で和解が成立する見込みがあるわけだ。
言うなれば、被告側は、盗塁に成功したのも同じである。
民事訴訟では、刑事事件と違って、情状酌量ということがない。
金を借りたか、借りなかったか、そのいずれかであって、その中間ということはないのだ。
その意味でも、民事訴訟のほうが厳しいわけだ。
人を殺したが、こういう同情すべき事情があるから執行猶予にするなんてことは、刑事事件に限ってのことであって、民事事件では起り得ない。
どちらかと言えば、刑事事件では、べっとりとした情緒的な法感覚がつきまとい、裁判官の裁量の幅が広いが、民事事件では、金を貸したか借りたか、などというエコノミックアニマ ルの世界が審判の対象となるので、生き馬の目を抜くような鋭さがある。
法技術的にも、民事事件のほうが精緻であり、複雑である。関連条文の数も多い。
卑近な例をあげると、民法の条文は千四十四条もあるが、刑法は二百六十四条しかないことからもわかるだろう。
弁護士の有能、無能が、民事事件の判決に大きな影響を与えることになるのも、法律技術が精緻であり、判例や学説の研究を怠っていると、たちまち依頼人の利益に響く。
その反面、弁護士の腕の見せどころでもある。刑事事件では、仮りに、弁護人がうっかりしていても、裁判所が被告人の後見的役割を果たしてくれるから、救われることもあろうが、民事事件では、原告と被告双方は対等の私人であり、裁判所がどちらかの側の後見 的役割を果たしてくれると期待するのは、とんでもないことだ。
民事事件と、刑事事件との、こういう根本的な違いから、用語にも厳密な区別がある。
刑事事件では、起訴された人を「被告人」と呼ぶ。被告人を弁護する弁護士は「弁護人」である。
これに対し、民事事件では、訴えた側が「原告」であり、訴えられた側が「被告」である。被告人とは絶対に呼ばない。
刑事事件では、原告側に当るのは「検察官」と呼ばれ、原告とは言わない。
民事事件で、原告なり、被告なりのために訴訟活動をする弁護士のことを「原告訴訟代理人」「被告訴訟代理人」と言うのであり、弁護人とは呼ばない。
マスコミの報道やテレビドラマでは、必ずといっていいほど、刑事事件の被告人のことを「被告」と 呼んでいるが、専門家の眼からみれば、無神経も甚だしい。
そういう誤解が当り前のように通用しているのだから、三八頁の実例のように、民事事件で被告にされたと言って、怒った人を笑うわくにもいかなくなる。