1/3「二つの自白(刑編) - 和久峻三」中公文庫 法廷生態学 から

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1/3「二つの自白(刑編) - 和久峻三」中公文庫 法廷生態学 から
 

「人を殺しました」と被疑者が自白し、それが供述調書に録取された場合でも、これが無条件に証拠として採用されるわけでないことは、たいていの人が知っていよう。
近頃、裁判に対する世間の関心が高まり、しばしば自白の問題がマスコミにも取りあげられるから、常識としても「自白というものは難しいものだ」という印象が強い。
刑事訴状法三一九条一項には、「強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑いのある自白は、これを証拠とすることができない」とある。
これが「自白の任意性」について定めた規定で、憲法三八条二項にもとづくものである。
しかし、自白についての法律上の規制はこれだけにはとどまらない。& amp; amp; lt; br>たとえ、任意性に疑いのない自白であっても、なお問題が残るのだ。
自白というものは、「犯人が人を殺したと自分で言っているんだから、間違いなかろう」と安易に信用されてしまうおそれがある。
こういう自白偏重の傾向があるために、得てして、自白の証明力は過大に評価されやすい。そこには、誤判に導く危険な罠がひそんでいる。
このところ、再審事件がマスコミを賑わしているが、これも、昔流の自白偏重の捜査方法が誤判の引き金になり、無実の人が刑務所につながれるという悲劇をもたらした実例である。
自白偏重を戒めるために、憲法三八条三項は、つぎのように定めている。
「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられ ない」
さらに、これを受けて、刑事訴訟法三一九条二項には、つぎのように規定が置かれている。
「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない」
これが、いわゆる「自白の補強証拠」の問題である。
「人を殺しました」と被疑者が自白しても、その自白の真実性を裏づけるような別個の証拠がなければ、有罪判決を下してはならないのだ。この別個の証拠のことを「補強証拠」という。
最もわかりやすい例をあげると、殺人事件について、被害者の死体が見つからない場合である。
いつ、どのような方法で、誰を殺したか。殺した理由は、何であったか。死体は、どのように始末したか。
これらについて、被疑者 の詳しい自白が調書に記載されたとしても、それだけでは、殺人、死体遺棄罪として処罰できない。
「そんなこと言ったって、犯人が死体を隠してしまい、いくら捜索しても発見できないときは、どうするんだ?」
「もし、そのために犯人が無罪になったら、正義は貫かれないじゃないか?」
「狡い犯人が、得をする結果になっても、いいのか?」
こういった疑問が、当然予想される。
しかし、鋭意捜査したにもかかわらず、どうしても死体が発見できないのなら、別の方法によって、被疑者の自白を裏づける補強証拠を手にいれることも可能である。
必ずしも、死体がなければ、殺人、死体遺棄の犯人を処罰できないわけのものではない。
では、どのような形で、どの程度の裏づけがあればよい のか。
結論から先に言えば、裁判官の自由心証の問題である。つまり、裁判官の判断によって、「この程度の裏づけがあれば、被告人の自白が真実であると認めてよい」となれば、有罪の判決が下される。

この問題を考えるうえに、格好の実例がある。
名古屋の女子大生を誘拐した犯人が、被害者を殺害して川へ捨てたという事件である。
犯人は逮捕され、自白したが、大がかりな捜索にもかかわらず、死体は発見されなかった。
ヘリコプターや船舶、民間の協力などを得て、連日のように大がかりな死体の捜索が行われたのであるが、結果は空しかった。
この事件について、検察庁は、自白について補強証拠のある身代金誘拐罪についてのみ、まず起訴し、殺人、死体遺棄罪については、死体の捜索の結果待ちという方針をとった。
しかし、被害者のバッグや眼鏡が川から見つかったものの、死体そのものは発見されなかったのである。
にもかかわらず、検察庁は、殺人、死体遺棄についても 追起訴した。
やむにやまれね切羽詰まった措置であったかもしれないが、まさか、「殺人、死体遺棄については、無罪判決が出てもやむを得ない。イチかバチかでやってみるか.....」というような横着な気持ちで、検察庁は追起訴に踏み切ったのではないのだ。
日本の検察庁は、起訴した事件については、有罪率九〇パーセントを超える成績をあげており、起訴については極めて慎重である。
検察庁としては、死体そのものがなくても、被害者が殺され、その死体が川へ捨てられたことを裏づけるハンドバッグや眼鏡が川底から発見された事実を重視した。
ほかにも、犯人が終始一貫して、矛盾のない自白をしていることを重くみた。
犯人の供述が転々と変り、自白と否認とを交互に繰り返したとか、自 白そのものの内容が矛盾にみちたもの
であったとか - そういった点は、自白の証明力を弱め、自白そのものを疑わしいものにする。
ところが、その犯人は、逮捕されて以後、勾留期間中に、一貫した矛盾のない自白をつづけていたのである。
こうした捜査過程における犯人の態度は、状況証拠ではあるにしても、自白の真実性を担保する有力な補強証拠である。
検察庁では、このような点を立証することによって、「死体なき事件」を有罪に持ち込むことができるという確信のもとに、殺人死体遺棄事件について、あえて追起訴に踏みきったのである。
ほかにも、補強証拠となり得る状況証拠があった。
死体を捨てたとされる木曽川を中心に、連日にわたり、大々的な捜索を行っても、死体が発 見されなかったのは、伊勢湾へ流された可能性が強い。
伊勢湾の底を浚(さら)えて捜索することは物理的に不可能に近いのだから、そこまでは要求できない。
そこで、死体を木曽川に捨てた場合、どういう経過をたどって伊勢湾へ流れるか。
そういった点を実験によって明らかにし、その結果をまとめた報告書を書証として法廷に提出し、死体が発見されなかった合理的な根拠を示そうとした。
そのことも、犯人の自白を裏づける補強証拠になり得よう。
補強証拠とは、被告人の自白以外のものであれば差し支えないものとされている。
例えば、共犯者の自白も、補強証拠になり得るというのが判例である。
二人の犯人が共謀して人を殺した場合、それぞれの自白は、他の共犯者の自白の補強証拠 にすることができる。これが通説である。補強証拠とは、必ずしも、被害者の死体そのものには限定されないのだ。
ただし、断っておくが、そのような状況証拠が、殺人、死体遺棄を裏づける補強証拠として、充分なものと評価し、有罪判決をしてよいか、どうか - これは、結局のところ、裁判官の心証の問題である。
当然に、この事件の第一審は合議制になるが、裁判長が「補強証拠として充分なものが提出されている」という意見をもったとしても、右陪席なり左陪席の裁判官のうちの一人が、反対意見を表明することもあろう。
あるいは、陪席裁判官の二人ともが、裁判長の意見に反対するかもしれない。
裁判長と言えども、陪席裁判官たちの反対意見を封殺することはできない。合議体を構成 する三人の裁判官たちは、裁判長であろうが、陪席裁判官であろうが、対等の立場で合議に加わる。
結局、多数意見が勝ちを占めるわけだが、三人の裁判官たちの合議は公開してはならない定めになっている。
いずれにしろ、名古屋の女子大生誘拐殺人事件は、死体が発見されなかったために物議をかもし出すおそれが多分にあった。
検察側としても、そういう意味で一つの賭を試みたとみらるなくもないのである。
法律実務家にとっても、この事件の審理が、どういう過程をとり、どのような結論に達するか、すこぶる興味深いところであった。
場合によっては、自白と補強証拠の問題について、リーディング・ケースとなる事件であったのだ。
ところが、そうした法律実務家の期待は、現実化し なかった。被害者の死体が発見されたからである。
かくして、「死体なき事件」は一転して、死体ある事件となった。
死体が発見されたのは、追起訴に踏み切ってから、まる二カ月後、しかも被告人の初公判を十日後に控え、検察庁では「死体なき事件」の立証方針について、内部の意見の調整を行い、最終的な詰めの段階にはいった最中の出来事だった。
この時点では、すでに警察も死体発見への希望を失い、捜索活動をあきらめていた。
そんなときに、たまたま、木曽川にボートを浮かべ、釣りをしていた人が、シートに包まれた被害者の死体を発見したのである。
死体発見の場所も、死体が遺棄されていた状況も - すべて被告人の供述どおりだったというから、やはり自白は真実だったので ある。
このゆうに刑事事件では、自白についての取り扱いが二重のお濠によって、固く防御されている。
「自白の任意性」についての規制が外濠であるとすれば、自白の信用性とか補強証拠とかの問題は、言うなれば内濠である。
いかに、刑事訴訟法が、被疑者なり被告人なりの自白を厳しく規制しているかが理解できよう。