「一将功成 華僑の冷飯ぎらい - 邱永漢」中公文庫 食は広州に在り から

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「一将功成 華僑の冷飯ぎらい - 邱永漢」中公文庫 食は広州に在り から

今度の戦争で多くの日本人がいままでにないさまざまな体験をした。家族を故郷に残し大陸や南方に遠征した将兵が現地の女性とむつまじくなって、いわゆる二人妻の問題に悩まされたのどもそのひとつであろう。もっとも戦争直後は逆の光景を見せつけられて、ひどくくさった人々もあったようだが、こんなことは人類史はじまって以来、どれだけ繰り返されたかわからない。南洋一帯に隠然たる勢力をもち、その総数一千万に及ぶといわれる華僑のそもそもの始まりもまたしかりである。
ものの本によれば、華僑を南洋にばらまく直接の動機になったのは、西紀一二七七年、元の忽必烈(タビライ)の瓜?(ジャワ)遠征と、明の永楽帝時代、すなわち一四〇五年にはじまる?和(テイワ)の遠征だそうである。前者のとき、動員された兵力は二万といわれ、主として福建、江西、湖広より徴集された。この戦争は結局失敗に帰したが、今日ベトナムに残っている元日本兵と同じように残留者がジャワにとどまったにちがいない。もちろんその数は問題になるほど多くはなかったであろうが、テイワの時代になると、前後七回、足掛け二十八年にわたる大遠征だったから、華僑発生史上相当の役割を果たしていると思われる。
ただし、これは杓子定規な考え方で、華僑を今日ほど繁栄せしめたのは、ほんとうは自分たちの故郷が住みにくかったからである。政治的亡命、集団移民.....等々、いくらでも説明はつくが、要するに国にいては食っていけなかったからである。日本人は国家的な団結力が強く、日章旗を背景にこれをやろうとしてしくじった。中国人の場合には背景にしたくとも、そんなりっぱな国家がない。結局、自分の労働力とわずかな資本と、あとは家族や同郷の人の団結に頼るよりほかない。いまではひとつ話になっているが、日本人と中国人が軒を並べて雑貨商を営んでいると、中国人はビールでも缶詰でも原価で売る。それでどうやって飯を食うのだろうと思ってよく観察していると、空箱と藁が収益だった。日本人は気が短いから、すぐにやけをおこしつ出血作戦に出たが、自らの墓穴を掘る結果になった。日本人の雑貨商が店を閉めて競争相手がいなくなると、中国人はもと日本人が売っていた値段でビールを売るようになった。中国の俗諺(ぞくげん)に「斬頭生意有人?、?本生意?人?」、つまり阿片や武器弾薬のごとき、発覚すれば首のとぶ商売をやる人間はあるが、損をする商売をやる人間はいない、というのである。
華僑が南洋をはじめ世界各地にばらまかれる過程は実に興味津々たるものがあるが、
華僑が南洋をはじめ世界各地にばらまかれる過程は実に興味津々たるものがあるが、近世になってから広州、香港、澳門一帯で富豪になる?径は、阿片、海賊、猪仔の商売をやることであるといわれていた。猪仔というと仔豚と思われるかもしれないが、実は苦力のことである。十九世紀から二十世紀の初頭にかけて、この地方では苦力の輸出が盛んに行われ、苦力の集荷(?)をする商売が繁盛した。食えなくなった連中は自らを二束三文で売りとばし、旧金山(サンフランシスコ)、新金山(シドニー)、小呂宋(フィリピン)、大呂宋(キューバ)などどこへでも、まるで豚のように船倉に押し込められて連れて行かれたのである。ひどいのになると、往来を歩いているのを甘言で釣って酒で泥酔させ、気がついてみたら奴隷船の中にいたというのもあったらしい。もっともこれは上海でも行われたとみえ、英語でShanghaiというと誘拐の意味につかわれている。ついでに申せば、水虫がHongkong Footで、とこ虱が日本人のあいだでは南京虫、ろくでもないものはみな中国の名産のようにいわれるのだから近世以後の中国はさんざんである。
しかしながら、未開の土地で人間らしい扱いも受けずに強制労働に従事した人々のなかから、やがて南洋の経済を牛耳る富豪が続々と現われた。南洋にある華僑の共同墓地に行くと、「一将功成万骨枯」という文字を見かけることがある。まさに万骨枯れて、という感じであるが、好運にも成功者になった人々にはおもしろい話がたくさんある。政治的に活躍したために比較的名を知られた陳嘉庚はゴム園であて、万金油というシナのメンソレータム(ただし腹痛にもきけば歯痛にもきき、痔にもきくと信じられている)で有名な胡文虎は土人の女に愛されてその秘法を伝授されたといい、彼らよりもまだ金のあるといわれた余東旋はマレー半島の錫大王だった。これらの人人以外に南洋には名のかくれた富豪が無数にいるが、彼らは成功してからも貧乏時代の風習を捨てないものが多い。私の友人で弁護士をしている男がはじめて新嘉坡(シンガポール)へ行ったとき、知人の紹介してくれた土地の有力な華僑がタンジョン・パガー碼頭まで迎えに来てくれることになっていた。船が着いたが、それらしい紳士の姿は見えない。しかたがないので、トランクを片手に思案していると、最後に木綿の不断着を着たはだしの男と二人だけ残った。向うから×先生ですかとことばをかけてきたので、そうだと答えると、その労働者風の男が当の華僑であった。広大なゴム園を所有する億万長者で、最新型の自家用車を何台も持っているが、彼ははだしのままそれに乗るのである。日本から輸入される罐詰の木箱に打ってある釘の数が近ごろ少なくなったぞ、と文句をいうのはたいていこういう手合いである。
新嘉坡、香港をはじめ各地に機関紙をもつ胡文虎は、昨年アメリカで客死したが、華僑のなかでも例外的に派手な存在であった。この人は養老院に寄付する十万ドルを惜しまない代りに、歯ブラシ一本買う場合、十セントでも安く買おうとする。そのために町じゅう自動車を乗りまわすことがしばしばあったが、秘書が自腹を切って二ドルのものを一ドル九十セントで買ったと告げるとめっぽう喜んだそうである。
金持になっても成金根性を発揮しないところに華僑らしさがあるが、それは彼らの心がけがよいからというよりも、そうしなければ他の者に対抗していけないからである。彼らは事業が左前になったからといって政府に泣きつくこともできず、デパートが横暴だからと独禁法に訴えることもできない。経済界の変動に対していっさい自分たちの力で始末をつけなければならないのである。したがって、華僑の経済組織は不況にも耐えていけるようにつくられているのがふつうである。一軒の店における使用者と使用人の関係は血縁的、地縁的色彩が強く、固定給なども日本人が想像するよりもはるかに低い。その代り決算後利益の二割とか三割を紅利(ホンレイ)[ボーナス]として使用人に分配する習慣がある。もう一つは使用者が使用人に飯を食べさせる習慣である。華僑の食事は朝十時と夕刻六時の二回がふつうであり、このときは老班(ラオパン)[主人]も同じ卓のものを食べることになっている。銀行のようにきわめて資本主義化された機関においてさえ、正午になると扉を閉めて銀行員一同食事の席につくところがある。なぜかといえば、中国には元来弁当なるものが存在せず、冷飯を食うことを極端にきらう傾向があるから、飯を出さねば飯を食べさせに帰さなければならない。銀行のように営業時間の短いところでは仕事の能率に影響するし、一般商店の場合には月給の安いのを補う意味がある。話のついでだが、「冷飯を食う」ということは牢獄へ行くことの代名詞に使われる。台湾では吃飯丸(チャンプンワン)といった。私は台湾の刑務所に入ったことがないから知らないが、冷たいニギリ飯を食べさせたからであろうか。
さて、以上のようなわけで華僑の商社では富豪の邸宅と同様に、厨師[コック]を雇っているところが多い。職員一同の生命線を預かる重大な仕事だから、この厨師を採用するとき、簡単な試験を行なう。