(巻三十)コンビニのおでんの湯気や冬に入る(八木健夫)

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(巻三十)コンビニのおでんの湯気や冬に入る(八木健夫)

7月16日金曜日

血圧検診で駅前クリニックに行く。下駄箱の上に花が飾ってあり、一撮致した。朝顔半夏生だろうか。10人近くいる看護師さんたちのなかのどなたが活けたのだろう。

朝貌や惚れた女も二三日(夏目漱石)

梅雨が明けたとそうだ。午後の散歩を夕方に繰り下げてみたが、5時を過ぎてもなかなか暑い。犬は暑さに弱いというが、猫もグッタリと転がっている。近寄って一撮したが逃げる気力もないようで首を動かしただけであった。

本日は四千四百歩で階段は3回でした。

夕方、細君と天頂に輝く琴座のベガ、織姫さまを愛でる。

願い事-叶えてください。この辺で静かに降ろしてください。

「心身論と唯脳論(抜書) - 養老孟司」ちくま学芸文庫 唯脳論 から

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「心身論と唯脳論(抜書) - 養老孟司ちくま学芸文庫 唯脳論 から

心は脳から生じるか

「脳という物質から、心が出てくる。そんなバカな話はない。心というものは、もっと霊妙不可思議なものだ」。
哲学で言う心身論とは、もっとも素朴な形では、こうした疑問から発生したものではないか。そこに、神学上の見解が加わる。神学では、心つまり精神とは、ヒトと神だけの持ち物でなくてはならないのである。もっともこれは、キリスト教神学の話だから、「一寸の虫にも五分の魂」というわが国では、ピンと来ない面もあって当然かもしれない。脳から心が生じて、なにが悪い。こちらでは、そう思う人の方が、多かったりする可能性もある。しかし、ちょっと考えると、脳という物質塊から、心というわけのわからぬものが出てくるというのは、変と言えば変である。したがって、この点を問題として指摘する習性が、文科系の人たちには、昔からあった。
唯脳論は、この素朴な問題点について、それなりの解答を与える。脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係に帰着する、ということである。この点を具体的に考えてみよう。脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。
「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」。
これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。
循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。
たとえばこの例が、心と脳の関係の、一見矛盾する状態を説明する。脳はたしかに「物質的存在」である。それは「物」として取りだすことができ、したがって、その重量を測ることができる。ところが、心はじつは脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。したがって、心臓という「物」から、循環という「作用」ないし「機能」が出てこないように、「物」から「機能」である心が出てくるはずがない。言い換えれば、心臓血管系と循環系とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。それだけのことである。

心を脳の機能としてではなく、なにか特別なものと考える。それを暗黙の前提にすると、「脳をバラしていっても、心が出てこない」と騒ぐ結果になる。それは、おそらく間違いである。「出てこない」のは正しいのだが、その意味で言えば、循環だって、心臓から出てくるわけではない。心が脳からは出てこないという主張は、じつは「機能は構造からは出てこない」という主張なのである。それは、まさしくそのとおりである。ただし、それは、心に限った話ではない。心は特別なものだという意識があるから、心の場合に限って、心という「機能」が、脳という「構造」から出てこないと騒ぐ。
では、なぜヒトは、脳つまり「構造」と、心つまり「機能」とを、わざわざ分けて考えるのか。それは、われわれの脳が、そうした見方をとらざるを得ないように、構築されているからである。唯脳論は、そう答える。これは逃げ口上ではない。生物の器官について、構造と機能の別を立てるのは、ヒトの脳の特徴の一つである。それは、脳の構造を見ればすぐにわかる。その特徴がなぜ、どのようにして脳から生じるのかは、後の章で詳細に述べることにする。
腎臓が尿を作る。それは機能である。その過程は、物理的化学的に実証できる。しかし、神経細胞から心が生じるのを、物理や化学で実証できるか。そう頑張る人もあるかかもしれない。
これもおそらく、範疇の誤認である。心は「物」ではない。しかし、尿は「物」である。オシッコなら、検査のために採ることができる。しかし、心はそうはいかない。検査のために、心を一かけら採ってくれ。そんなことを誰が言うか。血液なら、検査のために採取できる。それなら、検査のために、「循環を一かけら」採ることができるか。
「物」か「物でない」かは、あんがい難しい。われわれが「物」であることを自明とするような「存在」が、かならずしも「物」でないことは、解剖学の用語を考えただけでもわかる。たとえば「口」や「肛門」は、その典型である。口はむしろ機能を示す用語であり、そのことは、「入口」「出口」といったことばに、よく示されている。「口は消化管の入口である」といった定義は、同語反復の典型である。また、解剖学実習で、「肛門だけ」切り取って重さを測れ、と言われた学生は、よく考えると、往生するであろう。よく考えない学生なら、周囲の皮膚を切り取ってくるであろうが、それはもちろん、ダメである。肛門に重量はない。なぜなら、肛門に「実体」はないからである。これはいわば、消化管の「出口」である。
これは決して、単なる語の定義の問題ではない。ある「ことば」と、その「ことば」に対応する「存在」を考えたとき、解剖学で利用する用語ですら、「対するもの」が、外界から、「実体」てして、かならずしも明確に取り出せるわけではない。それなら、その「対応するもの」は、いったいどこにあるのか。それは、われわれの脳内にある。外界から取り出せないとしたら、それしかないではないか。唯脳論では、あらゆる存在は、外界にあるか、あるいは脳内にあるとする。あるいは、多くの場合に、その両者にある。それは当たり前であろう。

(巻三十)主義主張異つてよき花見かな(宇多喜代子)

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(巻三十)主義主張異つてよき花見かな(宇多喜代子)

7月15日木曜日

眼が治り、辺りが見えるようになると出歩きたくなるようだ。隣町の銀行のATMで記帳するだけなのだがついて来いと云うのでお供した。

9時過ぎの上り電車はかなり混んでいたが下りで行く隣町の町外れにある第3地銀の支店に客はいなかった。支店は小川沿いにある。川沿いのブラブラ歩きは桜の時季がいいが緑が濃いこの時季もなかなかよろしい。橋の袂にある松先稲荷に詣でた。お稲荷さんにポックリとそれまでの質素で平穏な暮らしをお願いした。お稲荷さんには賽銭箱が置いてない。脇にある小さな祠は弁財天らしくこちらには賽銭箱があったので十一円献納いたし、同じお願いをした。これで今ポックリ逝ければ大正解なのだが、さてこの先の丁と半である。

駅にもどり、アトレの崎陽軒で私は横浜炒飯弁当、細君は夏弁当というのを買い、加えて夕飯の足しにする焼売を買って二駅の旅を終った。

一駅が今日の旅なり鳥雲に(荻野美佐子)

本日は六千二百歩で階段は2回でした。

高齢者の保護が目的らしいが、口座から預金を下ろす額が二十万円までと制限がかけられてくるらしい。時々下ろしてまた預けるという手間をかけておかないとそういうことになるらしい。まあ、細君に任せておけばいい話だが。

願い事-叶えてください。静かに消えたい。

(巻三十)手の平に転ろがす定年水割りグラス(鈴木正季)

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(巻三十)手の平に転ろがす定年水割りグラス(鈴木正季)

7月14日水曜日

洗濯をして、生協へ同行し、昼飯を温めて、それを食って午前を終わる。

写真は生協の帰りに買った竜胆、蒲の穂、と、とある紫の花である。お盆の時季の花屋さんの店先は仏花ばかりだが細君が後ろの方からフランクフルト・ソーセージのような蒲の穂という植物を探してきた。帰り道、蒲の穂と因幡の白兎の故事の蘊蓄を細君からうかがう。竜胆は秋の季語だし、秋の花かと思っていたが、この時季に咲くのか!

大マンションの影の内なり盆の町(関悦史)

午後は軽く散歩してみた。百日紅が咲き始めたようだが一撮にはまだ早い。

本日は三千九百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。リンドウは毒のある花だと承知しているが、毒のありそうな紫である。毒は美しい。

笑ひ茸食べて笑つてみたきかな(鈴木真砂女)

笑ってみたくなりこの随筆集を捲ってみた。笑える作品が詰まっているわけではなかったが芥川比呂志の作品は読んで心が和んだ。太宰のエピソードを盛り込んだ随筆は多いが、読んだものはみな太宰に好意的だ。

「笑いたい - 芥川比呂志」日本の名随筆22笑 から

何人か寄って、話をしていて、笑えないのは、つらい。まじめな話合いでも、一と区切りつけば、笑いたい。まるで笑わないのは、くそまじめというものだ。むろん、悲劇的な出来事の後とか、せっぱつまった相談事とかは、抜きにしての話である。

笑いは、話にちょっと添える薬味ではない。お上品な食卓を飾るしゃれた生花ではない。笑いは、話の味をよくする酒である。いや、笑いは話そのものであり、私たちは、笑いのために話することさえあるのだ。

-中略-

みなが談笑しているのに、一人だけ黙っている人があると、気づまりなものだ。そこで、みなサービスの限りをつくして、話の中へ引き入れようとする。

黙っている方にも、事情はある。ちょっとした引け目とか、気おくれとかで、つい、黙りがちだったのを、まわりが気を遣いすぎるものだから、かえって気持が屈折して、ますます無口になる。機嫌がわるくて黙っているわけではない。しかし黙りつづけている内に、不機嫌になってくる。 

そうなると、みな興醒めて、何となく静かになるが、やがて面倒くさくなり、口をきかぬ奴を無視してあれこれ話合うにつれ、また油がのってきて、ついに笑いの飽和状態に達してしまうことがある。誰かが一言いうとみながどっと笑う、次の一言で哄笑、また一言、また爆笑、というあの状態である。まわりがそうなった時は、黙り屋はじつになさけない思いをする。

二十年の昔、私はそういう経験をしたことがある。

夜の座敷の客は、私のほかに数名、主人をかこんで話がはずみ、笑い声は間断なく、私一人が無言であった。まだ酒の味を知らず、無理にやっと飲んだ数杯のビールが、かえって憂鬱をつのらせた。私は頑[かたく]なに黙っていた。

ふと、卓の向うから、微笑して、主人が、私に声をかけた。

「きみ、靴下をぬいでごらん。楽になる」

虚をつかれた。半信半疑で、言われた通りにした。なるほど効果はてきめんであった。私は憑きものが落ちたようにしゃべり始めた。

隣から酒をすすめられる。断ろうとする私を制して、主人は卓ごしに自分の盃を差し出し、おどけた調子で言う。

「弱きを助けよ」

私は、はじめて、みなといっしょに哄笑した。

青森県金木町のその家の主人の名は、太宰治

(巻三十)秋簾女七つの隠しごと(田中恵子)

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(巻三十)秋簾女七つの隠しごと(田中恵子)

7月13日火曜日

息子の依頼に応じて衣類や図書を送るためにとっておいた段ボール箱を廃棄した。生活も落ち着き、もう追送する品も無かろう。

昼飯のオープンサンドを食っていると遠くの雷鳴が聞こえる。午後の散歩はせずともよいが夕飯の食材が足りない。豚ももの薄切りが必須で買いに出かけた。昼休み時間のためか働く人たちが買い物に来ているようだ。無事豚肉を確保して雨が落ちてくる前に戻れた。

本日は三千六百歩で階段は3回でした。

風呂とシャワーの温度を2度下げた。

先週のBBCの番組ではFoodChainで蜜蜂の話があったが、それほど面白くはなかった。そこで在庫の中からCrowdScience20180608Is Hyponosis the Real Thingを聞き返した。催眠術についての話である。言葉として書き留めたのは1103hound out追放、1212quackeryいんちき医療、1746normal distribution正規分布、1901mindset考え方、物の見方、好み、2756out of window問題外、などである。催眠術の話なのでその筋の用語はふんだんに出てきているようだ。催眠術ショーなどもあり、学術的には催眠術は外道と見なされてきたらしい。

願い事-叶えてください。わたしゃさっさと消えます。隠し事でも何でも構いませんが後家になっての身の振り方だけは考えておいてください。

炉話の身の振り方に及びけり(北村仁子)

「後家 - 別役実ちくま文庫 思いちがい辞典 から

後家というのは、一種の社会的な身分のことである。そして、あからさまにそうは言われていないものの、当の女性にとっては、かなり理想的な身分と考えられている。女性にはすべて、「結婚願望」というものが潜在していると言われているが、実はそれ以前に「後家願望」があることが、今日社会学者の調査によって明らかになりつつある。つまり、彼女たちの「結婚願望」は本来「後家願望」なのであり、ものの道理として「結婚」しなければ「後家」になれないから、それがたまたま「結婚願望」として表明されているにすぎないのだ。

> 従っておおむねの女性は、早いものでは結婚した翌日から、「いつ後家になれるかしら」と考えはじめる。もっと人生に対して積極的で、計画的な女性は、「いつ後家になろうかしら」と考えはじめる、とまで言われているのだ。それほど、「後家はいい」のである。ただし、時々酒場の片隅などで、決して紳士とは言えないような中年男性が、「後家はいいよ」と言っているのを聞くことがあるが、これは意味が違う。この場合は、それら中年男性の性的対象として「後家は味わい深い」ということを言っているのであって、当の「後家」にとっての身分のことを言っているのではないからである。そして、当の「後家」にとっての「後家はいい」という意味など、中年男性には想像もつかない。つまり、それほど「いい」のだ。

> もちろん、これまで多くの中年男性が、当の「後家」にとっての「後家はいい」という真の意味を解明すべく、手をつくしてきた。しかし、これだけはどうしようもない。「後家はいい」という真の意味は、当の「後家」にしかわからないのであり、男は、どうあがいても「後家」にはなれないからである。「男やもめ」というのがあるにはあるものの、これはまた、社会的身分としてはこれ以上はないというほど絶望的なものなのだ。「まだ死んでいない」というだけのものにほかならない。

> 実は、「後家」の別称「未亡人」は、文字通り「まだ死んでいないもの」の意であり、「男やもめ」たちが「後家」もそうであろうと想像して名付けたものであるが、彼女たちが唯々諾々としてその蔑称を受け入れた時、男としては気付いていなければならなかった。もし、「後家」の身分がその蔑称にふさわしいみじめなものだったら、彼女たちは「ムッ」としてそれをはねつけたに違いないからである。つまり彼女たちは、「名を捨てて実を取った」のだ。そして、男どもにはそう思わせておけ、と考えたのだ。

> これから考えても、「後家」というものがかなり「いい」ものであることがよくわかる。しかも、「後家はいい」ということは、生物学的にも確かめられているのである。人類の場合、女性の方が寿命が長いということが、あらゆる環境において確かめられており、長いこと生物学的な謎とされてきたのであるが、この「後家はいい」事実と、それによって促された女性たちの「後家にならずにおくものか」という固い決意が、男性の寿命を超えるのであり、一方男性の「男やもめになりたくないな」というたじろぎが、女性に負けるのである。

> というわけで、ここへきてすべての男性が、「後家はいい」らしいことを気付かされつつあり、その事実を、いやおうなく認めさせられつつある。それはいい。男性というものは概して寛容な生きものであるから、「そんなにいい」なら「先に死んでやってもいいよ」とすら考えているのだ。しかし、「どんな風にいいのか」という、その点だけは知りたい。それを知らないでは、「死んでも死にきれない」のである。そこで或る男性が、或る「後家」に、「どんな風にいいんだい」と聞いてみた。するとその「後家」は、ニタリと笑って、「フン」とうそぶいた。恐らく、そんな風に「いい」のだろう。

(巻三十)句作りの文語不識や寒の梅(藤田湘子)

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(巻三十)句作りの文語不識や寒の梅(藤田湘子)

7月12日月曜日

月曜日なので眼科に付き添いをいたしました。

もう一つ手元がよく見えて、字が読みやすい眼鏡を作ることにしたそうでお試しレンズの眼鏡かけて雑誌を読んだりしている。お試しが終わり検眼処方箋を頂いて眼鏡屋さんに廻る。少しずつではあるが不自由さが解消されていくようでありがたいことである。細君の眼科通いも一段落ついたようで次は1か月後になった。

私は午後から歯科に行った。エックス線だの口内写真だのとガタガタの口廃を見せつけられた。グラグラの歯は固定してもらえたが、当座のことでいずれは抜歯らしい。 少なくとも直接的な脅しはないので通うことにした。

レントゲンにボロボロの胸みられ夏(佐藤孝志)

本日は五千九百歩で階段は1回でした。

願い事-叶えてください。消えてしまいたい。

(巻三十)人に家を買はせて我は年忘れ(芭蕉)

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(巻三十)人に家を買はせて我は年忘れ(芭蕉)

7月11日日曜日 

細君が伊藤園のティバッグに載せてあった俳句を持ってきた。

水筒を垂直にして飲んだ夏(宮下?生14歳)

難しいお名前で読めず、すみません。書き留めました。

コップ酒飲み干す時のしばらくを

逆さのままに宙に留むる(伊倉邦夫)

を思い出した。

掃除、洗濯を致し、午後は図書館に参る。写真は今月の連光寺さまのお言葉です。

念仏は無の字ばかりや寒波くる(前田美智子)

本日は二千五百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。