「一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり - 河合隼雄」新潮文庫 こころの処方箋 から

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「一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり - 河合隼雄新潮文庫 こころの処方箋 から

平均年齢がのびて長生きができるようになったが、またそれだけに老後をどう暮らすかということも、人間にとっての大きな課題になりつつあるようである。ただ生きているだけで、苦しいことばかり続いたり、いつもいつも淋しいおもいをして生きていたのでは、いくら長生きをしたといっても、あまり意味がないような気がする、というのである。
子どもが居ないので老後のことを随分と心配して居[お]られる方がある。ところが一方では子どもが居るのだが、何のかの言って、親を老人ホームに入れてしまって、面会にもやって来ない。子どもの方は自分の家族や友人たちと楽しく暮らしている。そんなのを聞くと腹が立ってきて、電話でイヤミでも言いたくなる。すると子どもは、またおじいちゃんからのいやがらせの電話だと思うので、ロクに聞いてもくれない。こんなことなら「いっそのこと子どもなど居ない方がよかった」、「なまじ子どもが居るので腹が立つことが多い」ということになる。
夫婦の間でもそうである。夫婦でも年をとってから相手が居てくれてよかったと思っている人と、「この相手さえいなかったら......」と思っている人とある。一人だったら好きなことができるのに、なまじ相手がいるので気を遣ってしまう。そして、二人で顔を合わすと何だかトゲトゲとしてきて、腹が立つようなことを言い合ってしまうのである。
このような夫婦で、片方が亡くなられ、残された方はそれ以後、元気で楽しく......と思っていたら、その方も相ついで亡くなられるような例が割にある。「居ない方がいい」と思っている相手に、実のところは無意識に依存していることが大きかったのである。前に「文句を言っているうちが華である」と、述べたが、夫婦の場合もそうであることが多い。お互いに文句を言いながら、実はよりかかり合い、支え合っているのである。だから、文句を言う相手が居なくなると、自分の方もガックリと参ってしまうのである。
一人でも落ちついて楽しく過ごしている人もある。もっとも一人で楽しくと言っても、一人だから自由でいいとか、好きでもない人と一緒にいる人の気持がわからないとか、何のかのと言いながら、一人で楽しみを追いかけまわしたり、一人の楽しさをみせびらかして生きているような人もあるが、そんなのは偽物であることが多い。本当に楽しい人は、もう少し静かである。一人でもたのしいのだから、何のかのと他人をわずらわす必要はない。一人の楽しさを多くの人々に見せつけている人は、本当の一人になったとき、それに見合うだけの税金として、相当な涙を流して居られると考えていいだろう。それもまたひとつの生き方なので、別によしあしは論じることもないが、ただ羨ましがる必要のないことは事実である。
一人で楽しく生きている人は、心のなかに何らかのパートナーを持っているはずである。もちろん、そのパートナーは人によって異なる。「内なる異性」のこともあろう。母なるもの、父なるもの、かも知れない。「もう一人の私」と表現されるかも知れない。ともかく「話し相手」が居るのである。人間は自分の考えを他人と話し合うことによって、随分と楽しむことができるし、客観化することもできる。一人で生きてゆくためには、そのような意味で「二人」で生きてゆくことができねばならない。
一人でも二人であることを、少し面白くするために、ぬいぐるみなどに名前をつけて、一緒に住んでいる人もある。帰宅したときにも「今帰ったよ」とか「今日はこんなことがあってね」とか話しかけるのである。うまくゆくと、ぬいぐるみの方からもいろいろ面白いことを喋ってくれるはずである。
二人で生きている人は、一人でも生きられる強さを前提として、二人で生きてゆくことが必要である。無意識的よりかかりや、だきこみが強くなりすぎると、お互いの自由をあまりにも奪ってしまい、たまらなくなってくるのである。このことは別に依存が悪いと言っているのではない。人間は誰かにある程度依存しないと生きてゆけないし、依存したり、されたりするのも楽しみのひとつとも言える。問題は、まったく無意識的に一人立ちの力を失ってしまっているところにある。一人でめ生きてゆける人間が二人で生き、お互いに助け合ってゆくところに楽しみが見出だせるものなのである。
同じようなことをしていても、自覚のあるなしによって結果は大分変わってくる。一人でも二人、二人でも一人で生きているつもりができているか、それをどの程度やっているかなどについて自ら知っていることが必要である。