「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法とは - 井上ひさし」中公文庫 死ぬのがこわくなくなる薬 から

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「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法とは - 井上ひさし」中公文庫 死ぬのがこわくなくなる薬 から
 
編集部から与えられた紙数は四百字詰原稿用紙で五枚。これっぽっちの枚数で文章上達の秘訣をお伝えできるだろうか。どんな文章家も言下に「それは不可能」と答えるだろう。ところが筆者ならこの問いにたやすく答えることができる。それに五枚も要らぬ。ただの一行ですむ。こうである。
丸谷才一の『文章読本』を読め」
とくに、第二章「名文を読め」と第三章「ちょっと気取って書け」の二つの章を繰り返し読むがよろしい。これが現在望み得る最上にして最良の文章上達法である。
以上で言いたいことはすべて言い終えた。あとは読者諸賢の健闘を祈る。......ここで擱筆することもできればそれが一番よいのだが、まだだいぶ紙幅が残っている。そこであまり役に立ちそうもないけれど一つだけ書き付けておくことにしよう。
大雑把な区分だが、文章に二種ある。一つは個性のない実用文、もう一つは個性ある文章である。実用文の上達を願う読者はさっそく書店に駆けつけて実用書の書棚の前に立ち、目隠しでもして最初に指先に触れた本を抜いて立ち読みをなさればよい。レジに美人あるいは美男の姿があれば買うのも一興だが、いずれにせよ、実用文の習得は簡単だ。紋切型の文章を二三、さもなくば四五、暗記すればよい。それにワープロにも手本が載っているから悩む必要はまったくない。手本をなぞればすむ。
個性のある文章を書きたい、それも少しでもいいものをとお考えの読者は、まず丸谷版読本を、これは立ち読みで間に合わせようとせず、まじめに購入し、熟読することだ。さらにむやみやたらに文章を読むことが肝要である。秀れた文章家は、ほとんど例外なく猛烈な読書家である。どうかその真似をしてほしい。いい文章を書こうとする前に感心な読書家になるのだ。
なにを読めばいいのか。答えは存外単純で、手当たり次第でいい、なんでもいいのである。とにかく血へどを吐くぐらいたくさん読む。そのうちにきっと好きな文章に巡り合うだろう。そのときは遠慮なく「しめた!」と大声で叫んでいただきたい。喜んでいいのだ。そのときあなたは「立派な文章家」になる資格を得たのだから。このことを喜ばないという法はない。
いくら読んでも好きな文章に巡り合わなかったらどうするか。それもまた幸運なことではないか。なにしろ文章を綴るという地獄と、生涯、無縁で過ごせるのだから。
ちなみに、文章を綴るというのはごくごく不自然な行為である。そこになにか喜びがなければ瞬時も続けることができない窮屈な行為なのだ。言葉はどんな人にとっても既製品であり、わたしたちが生まれる以前からできあがっている巨大な制度だから、それを習いそれへこちらから合わせていくのは厄介な仕事だ。どうしても文章を読む読む喜びが味わえない人はこんな厄介事から早く遠ざかった方がいい。

好きな文章家を見つけたら、彼の文章を徹底的に漁り、その紙背まで読み抜く。別に言えば、彼のスタイルを自分の体の芯まで染み込ませる。これが第二期工事である。
そして次に、彼のスタイルでためしにものを書いてみる。もっと詳しくは、たとえば自分の親友に「おい、おもしろい話があるぞ」、「おもしろい発見をしたぞ。小さな発見かもしれないけど、おもしろいたろう」と、どうしても聞かせてあげたいと思うことを、彼のスタイルで書く。自分にとっては宝石のように尊いこと、それをだれかに打ち明けずにはいられないというところまで練り上げて、好きな文章家のスタイルで書く。
そんな書き方をしては、お手本の文章と似てしまうではないかと首をお傾げの方もおいでだろうが、これが不思議と似ないのだ。同じ人間が二人といないように、引き写しや、盗作をしないかぎり、同じ文章ができあがるということはない。たとえお手本通りに書こうと、もちろんその影響がここかしこに認められるにしても、できあがった文章はあなたの個性も刻印されているはずだ。そしてこれを繰り返しているうちに、あなたの個性はかならずお手本を圧倒していく。
そこで大切になるのは、いったいだれの文章が好きになるかということで、ここに才能や趣味の差があらわれるのだ。だからこそ日頃から自分の好みをよく知り、おのれの感受性をよく磨きながら、自分の好みに合う文章家、それも少しでもいい文章家と巡り合うことを願うしかない。つまり文章上達法とはいかに本を読むかに極まるのである。