「白熱講義のマナー - 福岡伸一」中公文庫 楽しむマナー から

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村上春樹の「羊をめぐる冒険」の中ほど、主人公がいよいよ北海道に羊を探しにいく朝、「僕」とリムジンの運転手のあいだに議論が展開される場面がある。それは、猫にいわしと命名したことに端を発する、名づけることについての議論だった。
〈「しかしさ、もし名前の根本が生命の意識交流作業にあるとしたらだよ。どうして駅や公園や野球場には名前がついているんだろう?生命体じゃないのにさ」「だって駅に名前がなきゃ困るじゃありませんか」「だから目的的ではなく原理的に説明してほしいんだ」〉
この小説を読んだのはもう20年も昔なのに、この部分だけは鮮明に心に残っている。というのも、その後、はからずも教員となり、白熱講義というほどのものではないけれど、学生たちを相手に議論をふっかける機会が増えると、必ず返ってくる答え方のパターンがあることに気づき、そのたびごとに、この会話を思い出すことになったから。
どうして脳死を人の死と考えてよいのか。そうでないと臓器移植が進まないからです。なぜ遺伝子組み換え作物が必要なのか。それがないと世界の食糧危機が救えないからです。それはそうなんだけど、私はそんな答えを期待していない。そうではなくて、もっと原理的に考えてほしいんだ。
アメリカに行って、そこでディスカッションすると、私はますますこの手の答えに頻繁に出くわすことになった。そして目的的な答え方には別のバージョンがあることがわかった。それは定義を問うときに顕著に表れる。たとえば、生命とは何か。それは動くものです。呼吸をするものです。細胞からできているものです。増殖するものです。
そうじゃないんだ。ある対象の属性を並べるのではなく、本質を探りあててほしいんだ。おそらく彼らは、いわゆるディベート力を鍛えるプロセスで言い負けないためには、答えに詰まらないようにするには、目的的、属性的な答えが議論するうえで反応速度的に有利であることを体得しているのだ。
しかし、である。何かの存在意義や判断の是非を問うとき、もしそうでなかったら、困る、不便だ、混乱するといった答え方、つまり目的的な議論は、その場では雄弁に見えても、結局、現状を肯定し、変革を回避し、そして根本から考え直すことを阻止してしまう。ある種の逃げでしかない。いくら属性で周りを包囲しても本質は見えてこない。
私は、本当の白熱講義とは、熱くなることではなく、ディベートで優位に立つことでもなく、むしろ原理的な考察、属性ではなく本性を突き詰める静かな思考をじっくり促すことにこそあると思う。だって、人生で一番大事なことは、ディベートなんかでは答えられないものだから。