「おいとけさま - 別役実」日本の名随筆52話 から

「おいとけさま - 別役実」日本の名随筆52話 から

「おいとけ」というのは、「放っておけ」という意味である。「そばにあっても気にするな」ということなのであり、その名の通りの存在なのだが、実際には、かなり具体的な効用のあるものであって、東北地方の山間部などでは、現在でもまだ使用されている。
三人以上人が集れば座がなごむが、二人きりで対座するとなると、どうしても気詰りだ、という感じは一般によく知られている。《おいとけさま》というのは、そうした二人きりの対座の時、座をなごますためにかたわらに置く、等身大の木彫の座像のことである。「おいとけさまにも、おいでてもらいましょ」と言って、二人っきりになったとたん、老婆が押入れの隅から、黒くすすけて目鼻立ちもはっきりしなくなった大きな木像を、ずるずる引きずり出してくる光景は、現地を訪れたものなら、たいてい一度や二度は見ているはずである。
現在ではもうそんなことはないが、かつては《おいとけさま》を正面に据えて、その前に二人が並んで坐り、お互いに話すべきことを、総て《おいとけさま》に向って話したのである。つまり総ては、《おいとけさま》を通じて隣りに坐っているものに受信されるという径路を辿ることにより、「目を見合せてはにかんだりすること」などなしに話し合うことが出来たというわけなのだ。
戦後間もなく、アメリカ文化讚美の大合唱の中で、「人と話す時に相手の目を見ない」ことを、日本人の悪癖として声高に論じた似而非文明評論家が居たが、恐らく彼は、我国に古来より伝わるこうした対人関係における優雅な仕掛けを、知らなかったに違いない。もちろん、その似而非評論家にそそのかされて、必要以上に相手の目の中をのぞきこむようになってしまった我々にも、全く責任がないとは言えないが。
相手の目をのぞきこむことは、相手をとめどもなく怪しむことである。従って人は、相手の目をのぞきこむことによっては、おだやかな会話は希めない。おだやかな会話を期待するのなら、目の前にいる実の相手ではなく、自分自身がこうあって欲しいと思う相手に向わなくてはならない。この、相手に対する「やさしさ」と、ナイーブな感受性が《おいとけさま》を生み出したのである。

《おいとけさま》は、前述したように等身大の座像であり、室内で使用されるものが主であるが、一部に携帯用の小型のものを使用するところもある。戸外で、思いがけなく道で出合って立話しをする時などに使用するものであり、この変型は一般に「こけし」として流布している。言うまでもなく、「こけし」は「個消し」の意味であり、自我を殺して会話のおだやかならんことを期待するのである。
最近《おいとけさま》の民俗学的研究が、再び盛んになりはじめたのは、もちろん、こうした効用が問題になったせいではない。《おいとけさま》こそ《ほとけさま》の、前駆的存在ではないか、ということが、近年一部の民俗学者の中で、言われはじめてきたからである。《おいとけさま》《放っとけさま》《ほとけさま》というそれぞれの語感が似ていることは言うまでもないが、もちろんそれだけのことではない。
我国に仏教が伝わり、それが全国に伝播した速度が異常に早かった事実は、これまで多くの研究家が問題にしてきたことであるが、もしそれ以前に我国に、それを吸収するに足る条件が備わっていたとすれば、これは説明可能なものとなる。つまりここで、《おいとけさま》の存在が浮かび上ってくるわけである。これが仏教の伝播以前に我国にあった風俗であることは既に検証ずみのことであり、しかもその座像は、仏の座像と極めて良く似ているのである。もちろん、「おいとけ」「放っとけ」として無視する傾向と、「仏を崇める」傾向とを同一に論ずることは出来ないにしても、或いは、二者対座における気詰りをなごます効用を「仏の救い」に置きかえてこれを受け入れたのかもしれない。いやもしかしたら、仏教の教義そのものが、《おいとけさま》の存在によって、大きく変更されながら、独自の定着の仕方をしたのかもしれない。だとすればこのことは、仏教研究の側からの作業を通じて更に確かめなければならないことである。