「校正について - 澁澤龍彦」増補版誤植読本から

 

「校正について - 澁澤龍彦」増補版誤植読本から


かつて岩波書店で社外の校正係をやっていたことがあるので、校正に関して私はベテランのつもりであり、近ごろの編集者の校正の下手さ加減が目について仕方がない。「校正の神様」として有名なのは神代種亮であるが、アルバイトがなくて貧乏している若い私に岩波書店の校正の仕事を世話してくれたのは、これも「校正の神様」といわれた西島九州男[くすお]氏であった。
西島さんは昭和五十六年に八十六歳で亡くなられたが、麦南という俳号のある蛇笏[だこつ]門下の俳人でもあり。岩波書店では約四十年間にわかって校正を担当、漱石露伴や龍之介の大著をほとんど手がけたという。
私が知り合ったころ、すでに六十をすぎていた西島さんは、小柄だけれども姿勢がよく、いつも口をへの字にむすんでいて、その口がひらけば必ず辛辣[しんらつ]なことばが飛び出した。煮ても焼いても食えない老人だったが、いかにも明治人らしい理想主義の背骨がぴんと通っていて、おもしろい人だった。
それはともかく、校正というのは独特な注意力を要求する仕事で、生来それに向いていないひとは、いくら努力をしてもダメだと思ったほうがよさそうである。編集者としてきわめて有能なひとでも、校正だけはからきしダメという人がいる。
私もかつては校正者てして他人の本の校正をしていたものだが、いまでは著者として自分の本の校正をしてもらう側の人間になってしまった。だから校正者の気持もよく分るつもりなのだが、やはり腹が立つときは腹が立つものである。
近ごろの校正者の通弊として、私がもっとも困ったものだと思うのは、やたらに字句の統一ということを気にする点である。これは画一的な学校教育や受験勉強の影響ではないか、などと考えてしまうほどだ。「生む」と書こうが「産む」と書こうが、どっちでもいいのである。その場合に応じて、両方を使い分けても一向に差支えないのである。
それからまた、すべてを広辞苑に基づいて判断するというのも、困った傾向である。私が「膝まづく」と書くと、「跪く」ではないかと疑問符を付されることが多い。広辞苑には「跪く」しか出ていないからだ。
「渇を癒す」と書くと、「渇き」ではないかと指摘されることがある。これは「カツをいやす」と読むのである。「カワキ」ではないのである。そのくらい、おぼえてほしいものだ。