「二塁の曲り角で - 梅崎春生」怠惰の美徳 中公文庫 から

 

「二塁の曲り角で - 梅崎春生」怠惰の美徳 中公文庫 から

うちにはエスという名の犬がいる。昭和二十三年頃、何となくうちの縁の下に住みつき、子供がめしなどを与えているうちに、とうとううちの飼犬になってしまった。正式に登録し、犬税も滞納せずに、きちんきちんと払う。容姿も大したことはなく、芸もろくに出来ず、取得のない犬だったが、私は種に困るとこのエスを小説や随筆に書き、犬税や餌代を上廻る原稿料を稼いだ。その点で私はエスを大いにとくとして、三度の食事も私が吟味して、うまいものを食わせてやっていた。
そのエスが、昨年(昭和三十三年)の暮、突然死んだ。
朝八時頃、私が犬飯をつくって、犬小屋に廻ると、エスは小屋の中にいず、小屋の前の地べたに横になっていた。犬小屋の内には藁が敷いてある。こんなに寒いのに、藁に寝ず、何故つめたい地べたに寝ているのか。三米ぐらい離れたところから、そう思いながら、私はしばらく観察した。三米以内に近付かなかったのは、なんだか妙に動悸がして、気味が悪かったからである。
そのまま三分間ばかり観察して、私は犬飯を持ち、台所に戻って来た。犬飯を塵芥[じんかい]入れに捨て、うちのものに言った。
エスが死んだらしいよ」
うちのものたちは直ぐにどやどやと飛び出して、やがてぞろぞろと戻って来た。やはり死んでいたのである。
そこで、庭にうめなくちゃとか、死骸をあそこに置き放しじゃ困るからどこかに移さなくてはとか、わいわい言っていたが、図体の大きな犬だから、女子供の手に負えない。私にそれをやれ、と言い出して来た。私はことわった。
「死骸というやつは、気味が悪いからイヤだ」
「だってこの前、カロが死んだ時、自分で埋めたじゃないの。犬の死骸も、猫の死骸も、死骸という点では同じよ」
カロというのは、三年前に死んだうちの猫の名だ。
そうだ。死骸という点で同じであることは、私も知っている。しかし死骸に対する私が、三年前と今とでは違っている。
三年前、カロの臨終を私は眺めていた。カロは柳行李のぼろの中で、最後の痙攣をして、そのまま動かなくなった。(このカロのことについても、私はずいぶん原稿料を稼いだ。)カロの身体からその瞬間、生命が去って行った、という実感がその時私に来た。つまり動かなくなったそこにあるものは、カロ、マイナス生命、という具合に感じられた。だからそれは不気味ではなかったのだ。私は庭の隅に、カロを埋葬し、石を積んでやった。
昨年末のエスの場合は、そうでなかった。三米の距離から見たエスは、エスの身体から生命が引揚げたのではなく、エスの身体に死というものが、忌わしい死が到来した、という感じが強くあった。私が気味が悪かったのは、そのやって来た死であった。生命が去ったって、死がやって来たって、現象としては同じようなものだが、実感する側からすると、ちょっと違う。彼は快活な人間だというのと、彼はおっちょこちょいだというのとぐらいには違う。
「つまりこの犬飯をつくったのは、むだだったというわけなんだな」
と、わざと呟いたりしてみたが、もちろんそれでごまかし切れるものではない。
結局、死骸を放って置くわけには行かぬので、近所の八百屋から大型の蜜柑箱を買い求め、年少の友人の秋野卓美君を電話で呼び出して、詰め込み方を依頼した。彼は直ぐにやって来た。子供たちが蜜柑箱に紙を貼り、秋野君がエスの身体をぎゅうぎゅうに詰め込んだ。私は依然として、三米離れたところから眺めていた。三米というのに意味があるわけではないが、どうもそれ以上近づく気になれない。子供が花をたくさんエスにかぶせ、秋野君が蓋にがんがんと釘を打ちつけた。
「どうして近寄らないんですか?」
と秋野君が聞くから、私は答えた。
「あれ以来、ちょっと具合が悪いんだ」
犬の医者に電話して、その蜜柑箱を持って言って貰った。火葬料三百円とのことだったが、まさか人間の火葬場に持って行ったのじゃあるまい。(そんなことをすると、人間が怒る。)犬猫専門の火葬場が、どこかにあるらしい。犬医者の自転車のうしろにくくりつけられて、蜜柑箱が遠ざかって行く風景は、何か趣き、いや、趣き以上のものがあって、私は何だか身につまされるような思いがした。

 

昨年の十月だったか、呉九段と高川本因坊の対局があって、観戦記者として私はおもむいた。その時私は疲れていたと思う。一日目の夕方、私は対局室から控え室に降りて来て、毎日新聞の三谷水平さんと碁を打っていたら、急に気分が悪くなって来た。そのまま横になった。顔の筋や頭の中にしきりに痙攣が走って、何とも言えないいやな感じである。三谷さんは驚いて、持薬の心臓薬を服用させ、窓をあけ放った。一酸化炭素の中毒をも懸念したのである。直ぐ電話をかけて、医者を呼んだ。
医者が来るまでの二十分間、死ということがちらちらと私の頭をかすめた。ああここで死ぬのかも知れないな、それならそれでもいいや、という気持だったと書きたいところだが、随筆にうそを書いてはいけないという決めがあるそうで、それならば、やはりここで今死んじゃ困る、切に困る、という気持の一本槍であった。しがみつくようにして、医者の到来を待ちこがれた。医者はやって来た。先ず聴診器で心臓をしらべ、つづいて血圧を計った。血圧は百九十あった。(あとで医書で調べたら、こんな発作を高血圧症の脳症と言うらしい。)降血圧剤を注射して、医者は帰って行った。その日は絶対安静で、もちろんお酒も飲まず、うつらうつらと眠った。その夜半、その宿に泥棒が入った。呉九段の部屋から現金を、三谷さんの部屋からカメラその他を盗み、自動車で東京方面に逃走した。(どういうわけか私の部屋には入って来なかった。)三人組だったとのことで、翌朝その話を聞いて、私はその三人組に対して憎しみと同時に、かすかな羨望を感じた。羨望というのは彼等の行動性に対してだ。おれがこんな具合になって、身動き出来ないのに、あいつらは事もあろうに泥棒なんかをはたらいている。怪[け]しからんという気持と羨ましいという気持がごっちゃになって、更に私の気力を無力にした。
翌日医者が再訪した時、血圧は百三十くらいに下がっていた。
その時医者は言った。こういう体質の人は案外長生きしますよ。その言い方には憐れみの色があった。何故、と私は問い返した。自分を大事にするからですよ、と医者は答え、帰って行った。だから大事をとってその日も安静、翌日東京に戻り、直ぐ帰宅すればいいのに、切符を持っていたから、後楽園でカージナルス対全日本の野球一回戦を見た。寒い日で、最後まで見るには見たが、選手たちが投げたり打ったり走ったり、それを見るのは楽しいというよりつらかった。泥棒に感じたのと同じような感じがあって、それがつらかったのだ。

 

その日をきっかけとして、心身の違和が何となく始まり、だんだん増大して、正月頃には最高潮に達した。心身の違和といっても、正月頃は心の方が八分、身の方が二分、あるいは九分一分の配分で、気分の方が参ってしまったのである。常住坐臥[じようじゆうざが]死のことを考えている。死についての哲学的省察をめぐらしているのではなく、もっと低次元でそいつとつき合っているのだ。死についていくら考えたって、結論は出ないことは先刻御承知だけれど、向うから忍び入って来るからかなわない。
この状態はよくない。放って置けないと考えたのが大晦日で、明けて一月三日友人の神経科の医師広瀬君の家に相談に行った。私の訴えを聞いて、広瀬君は即座に言った。
「入院するんだね。それも直ぐ」
直ぐと言ったって、こちらにも仕事がある。仕事が終るのが五月初旬、その頃入院ということにして、それまでは薬でつなぐことにした。四箇月間薬で持ちこたえられるかどうか、自信はなかったけれども、そうするより仕様がない。幸い今(四月二十日)まで持ちこたえたから、あとはどうにかやって行けるだろうと思う。
それから私は来訪者たちに私の病状を詳述し(いくらか誇張して)PRを依頼した。こんな病気は、ひっそりと病んでいるのは面白くない。あまねく人々に知らせて、同情されたり、あるいはざまあ見やがれと思われたりする方が、心に緊張を与えて、精神衛生上有利であると判断したからだ。そのPRはかなり成功した。ざまあ見やがれの方は測定出来ないけれども、同情票の方は言葉やはがきになって、具体的に集まった。
ある人が言った。昔から四十二の厄年といって、その頃は身体の調子のかわり目で、何かが出て来るんだよ。君は厄年にしては少しひねてるけれども、人間の寿命が一般に伸びたから、現代はひねた加減のところで出て来勝ちなものだ。野球で言うと、二塁の曲り角にさしかかったんだね。
二塁の曲り角か。私は訊ねた。すると三塁は?三塁は六十前後に来るそうだ。ではそのあとは?あとはホームまで一直線さ。なるほど、なるほど、あとはホームインまで一直線かと、私は了承した。すると一塁は?
「一塁は青春だよ」
というのが、その男の答えであった。そういえば私にも思い当る節がある。私は大学に入った時から卒業までの四年間、心身の違和(これも心の方にウェイトがかかっている)が続いて、学校には出席しないし、被害妄想もあって、それで下宿の婆さんを殴って怪我をさせて、留置場に入れられたことなどもあった。たしかにあれが一塁の曲り角だったに違いない。その頃の日記を読むと、ほとんど毎日のように「荒涼として死の予感あり」だとか「暮夜眼覚めて死をおそるることしきりなり」とか、そんなことばかり書き連ねている。荒涼として死の予感があった青年が、別段病死もせず自殺もせず、のほほんとこうやって生き伸びているのだから、笑わせるようなものだが、やはり心身の違和を、若さで押し切ったのだろう。

「とうとうわしも二塁の曲り角まで来たか」
と、ある晩お酒を飲み、少し酔って書斎にひとりで坐り、そう呟いた。「僕」という呼称のかわりに「わし」というのが、自然に口から出た。そこでも少し、いろいろ使ってみた。
「わしは哀しい」
「わしは飢えている」
「わしは背中がかゆい」
わしという呼称は、作中人物に使わせたことはあるが、自分で使ってみるのはこれが初めてである。他人が使っているのを時々聞くと、イヤ味なものだと思うが、自分で使う分には、何だか勇ましいようなわびしいような、ちょっと趣きのあるものである。で、翌晩もお酒を飲んで(毎晩飲んでるみたいだ)うちのものたちを呼び集め、僕も二塁の曲り角まで来たから、以後僕はやめて、わしにしようかと思っていると相談したら、全員から猛反対を受けた。二塁如きでわしを呼称するのはまだ早い。それに近頃医業薬業の発達で、三塁の次はホームという形がくずれつつある。三塁の次に四塁、四塁の次に五塁と、次々に塁が続いているのが現状で、わしを使いたかったら、紀元二千年の祝典以後にしたらどうか、というのがうちのものたちの私への忠告であった。
紀元二千年の祝典というのは、私が以前書いた随筆で、それに日本地区の文化人代表として出席したい、というようなことを記した覚えがある。今でも出席したいと本気で思っている。私は千九百六十五年の生まれだから、紀元二千年というと、八十五歳になる。それくらいまでは生きられるだろう。歳も歳だから、私が団長ということになり、阿川弘之翁や有吉佐和子刀自[とじ]、それに私は外国語に弱いから通訳として遠藤周作老などを引具し、祝典の場所に出かけたいと思っている。どこで祝典が行われるか、やはりその時にならぬと判らない。
で、そういうわけで「わし」はあと四十余年経たぬと、使えないことになった。当分は僕一本槍だ。
とにかく来月には仕事が終り、入院する。この四五箇月、外歩きをしないで、家にこもってばかりいたので、身体が少々退化した。先日近所の靴屋に足の文数を取らせたら、十文二分になっているのには驚いた。軍隊にいた時は十文七分あったのだから、五分も退化したというわけになる。まだ若いんだから本式の退化ではないだろう。運動不足から来る一時的現象に違いない。幸い今度の病院の療法は、あらゆるストレスを一応御破算にして、振り出しのところに戻す療法だそうで、退院の暁は大いに運動だの登山だのして、足の文数だって十一文ぐらいにはなりたいものだと思っている。そうでないと、団長なんかつとまりそうにない。