「わたしの個人情報 - 土屋賢二」文春文庫 長生きは老化のもと から

「わたしの個人情報 - 土屋賢二」文春文庫 長生きは老化のもと から

コロナ禍の中で痛感されたのは、マイナンバーの普及


の遅れである。大きい障壁になっているのは、個人情報の流出への懸念である。
近年、個人情報の扱いは慎重になっている。名簿や緊急連絡網はなくなり、大学の合格発表は、氏名でなく番号でなされている。これほど神経質になっているくせに、なぜみんな平気で自分の名前と顔をさらしているのか不思議である。
個人情報がそれほど大事なら、大学入学後も、刑務所にならって氏名の代わりに番号を使うべきではないかと思う(マスクや仮面をつけるようにすれば、顔も知られなくてすむ)。念のため、番号は不定期に無作為に変更し、卒業と同時に番号の記録も抹消すれば個人情報はほぼ守られる。
夫婦の間でも、無断で携帯を見るとプライバシーの侵害になる。やがては本名、職業、収入、年齢、体重、前科、愛人関係などの個人情報も厳重に保護するようになるかもしれない。
それほど重視される個人情報だからさぞ貴重なものに違いない。そう思ってわたしの個人情報を点検したところ、驚くべきことが判明した。自分で知っている情報は信じられないほど少ない上に、そのわずかな情報も不正確きわまりないのだ。
自分の容貌は把握しているつもりだが、写真を見ても鏡を見ても、失望しなかったことがない。録音した声を聞けば、まるで他人の声だ。思っているよりはるかにみすぼらしい。大幅に自分を美化しているとしか思えない。
ただ、自分の目や耳で確認できるのは氷山の一角にすぎない。自分の寝顔や後ろ姿、真上から見た姿は、自分では分からない。目のさめるようなハンサムである可能性も捨てきれない。
こころについては、情報量はさらに悲惨だ。自分が何を望んでいるのかということですら、確たる情報はない。ファッションでも食べ物でも、専門家が創出した需要な欲求をそのまま受け入れているし、映画や小説など、どこで泣かせ、どこで笑わせるが、計画通りに操られている。異性の好みでさえ、最近は人工知能に教えてもらう時代なのだ。
そのほか、わたしの内蔵や血液の情報は、わたしより医者の方が知っているし、預金の情報は銀行員の方が知っている。わたしの小遣いの上限は妻しか知らない。
自分の過去の情報も乏しい。子ども時代のことを覚えていた親は「小学校に上がっても寝小便していた」と嘘をついていた。わたしが何を言ったか覚えている(と言う)妻は「何を買ってもいいと約束した」などと捏造している。
さらに曖昧な「人間性」に至っては、だれもが情報と呼べるものをもたず、好き勝手に創作している。妻も、自分をよっぽど偉大な人物だと思い込んでいるはずだ。そうでなければ、あれほど高飛車にわたしを叱りつけるはずがない。そのせいで、若いころ誇り高かったわたしは、いまや、ひいき目に見てもロクデナシとしか思えなくなっている。
だが、曇りのない目で見ればわたしが偉大な人物であるという可能性も残っている。何といってもわたしは謙虚だ。自分を過小評価している可能性が大きい。
だがそれもあやしい。たとえばわたしは「自分が一家を支えている」と自負し、その責任を片時も忘れたことはないが、妻はわたしに頼るどころか、軽んじているフシがある。理由は不明だ。大地震のときわたしが真っ先に逃げたからなのか、ゴキブリが出ると、躊躇なくスリッパを妻に渡すからなのか、妻の財布から金を抜いたからなのか、隠し事がバレたのか、「ありがとう」か「ごめんなさい」を言い忘れたのか。
いずれにしても保護に値しない個人情報ばかりだ。