「エロ小説 - 酒井順子」角川文庫 ほのエロ記 から

 

 

「エロ小説 - 酒井順子」角川文庫 ほのエロ記 か




写真であれ映像であれ、視覚的にエロティックな刺激がいくらでも存在している今、エロ小説というのはよく生き残っているものであるなぁ……。
と、電車の中で隣のおじさんが読んでいるスポーツ新聞のお色気面を盗み読みしている時など、私はよく思うのです。スポーツ新聞のお色気面においても、また男性週刊誌においても、エロ小説枠というものは昔も今も、必ず存在している定番。書店に行っても、フランス書院などのエロ小説は必ず、一定の棚を確保しているのです。
エロ小説の根強い人気は、しかし私にもよーく理解できるものでした。世の中にはビジュアルで興奮する人と、文字で興奮する人がいるものですが、私自身もどちらかといえば後者。前者は、リアルな女体(男体でもいいのですけれど)を見ることによって脳に刺激を受ける人々であり、対して後者は文字を読んで頭の中であんなことやこんなことを想像することによって、興奮を高めていく。そしてエロ小説は、後者的な人々にとっては不可欠なエロ文化なのです。
ビジュアルのエロに比べると、文字のエロはいかんせん地味、という印象があるかもしれません。エロビジュアルの世界においては、消費者を飽きさせないために、あらゆる手段が開発されています。AVの世界においても、女優さんはどんどん美人になってきている。それに比べたら、文字で興奮なんかできるの……? と、ビジュアル派としては思うかもしれません。
しかし文字エロというものは、また別の可能性を持っているのだと私は思います。ビジュアルエロの世界においては、視線というものが、予め限界を作ってしまうのです。美人AV女優がいたとしたら、彼女の顔以上の「美」は、そこに見ることはできない。
対して文字エロに、限界は無いのでした。美人がセックスをするというシーンになったら、読者は自分の想像によってどんな美人でも登場させることができる。また「淫らな音」と記してあったとしたら、私達は自分の心の中でいくらでも、その音の淫らさを増幅させることができるのです。

たとえば現代のエロ小説界の旗手・神崎京介先生は、よく「うるむ」という言葉を使用されるわけですが、映像においてうるみが実写されていたら、それはちょっと粘性を帯びた液状のもの、程度の存在であるわけです。が、「潤む」を名詞化したものと思われる独特の言葉である「うるみ」という表現によってそのものが表現されると、それは単なる液状の何かではなくなるのでした。読者の頭の中において「うるみ」は、時に金色に光ったり、時に飛沫[しぶき]になっていたりと、どこまでも自由に形を変えることができるわけです。
このように、エロ小説を読む醍醐味とは、いかに妄想を働かせるかという部分に存在しているのでした。そういった意味において、エロ小説はむっつりスケベメンタリティを持つ人に向いたジャンルであるということができるでしょう。
だからこそ重要になってくるのが、エロ小説におけるリアリティ、です。古典的なエロ小説を書いているのは多くが男性であるわけで、その手の小説を読んでいると、確かにここは頻繁にセックス描写が出てくるという技術は素晴らしいし、「密壺」とか「秘肉」といった、妙に淫猥な造語力には感心するのです。が、女性からしてみると、
「女はこんなこと言わないだろう」
とか、
「女はこんなことをしないだろう」
と、思うこともしばしば。つまり、登場人物である女が「モミモミして」とか「花びら」とか言い出すと、途端にリアルさがガクッと失われて妄想も萎む、のです。
私が物心ついた頃、エロ小説界の二大巨頭といえば川上宗薫宇能鴻一郎であったわけですが、その時点で両者には既に大家感があり、私は「エロ小説=おじさんのもの」という印象を持っていました。
宇能鴻一郎の場合、
「あたし、もうガマンできなくなっちゃったんです」
的な、女性の一人称エロ語りという手法が目新しかったらしく、当時の男性達をおおいに興奮させたそうなのです。確かに当時は、女性が性欲を持つということを堂々と表明できる世ではなく、女性はあくまで表向きは性的に受け身の立場。だからこそ、
「あたし、もうガマンできなくなっちゃったんです」
は、禁断のつぶやきとして男性達の心を掻き立てたのだと思うのですが。
そこから始まって他の作家達も取り入れるようになった、「男性作家が描く、女性のエロ心の吐露」というものは、しかしあくまで男性視点に立っているものでした。女性の読者を想定していないのだからそれは当然であるわけですが、おそらく密かにエロ小説を愛読していた女性達は、
「わかってない……」
と隔靴掻痒[かつかそうよう]感に舌打ちをしていたに違いないのです。

昨今は、女性が性欲を持っているのも当たり前、女性から迫るのも当たり前という認識が広まっています。女性が性的欲求を吐露するのは何ら珍しい現象ではなくなり、それどころか既に「もうわかったって」と、男性としては食傷気味ですらある。
だからこそ昨今は、女性が書く女性のためのエロ小説が、流行りなのでしょう。そりゃあ、
「美奈の密壺は愛液でヌラヌラと」
といった男性作家の記述を読めば、心ある女性作家ならば「だからさぁ」と、筆をとらずにはいられまい。しかし、昨今のガールズエロ小説も、時に幻想的すぎたり時にお洒落すぎたりして、ゲスさに欠けて「劣情をそそられる」とまではいかなかったりするきらいもある。「『密壺』ってのもナンだが、『ウァギナ』っていうのもこれまたナンだなぁ……」と、思えてくるのです。
男が書こうと女が書こうと、“帯に短したすきに長し”感をエロ小説に抱いてしまうのは、仕方の無いことなのかもしれません。セックスとは、ごくごく個人的な行為。人はそれぞれ、自分が現実に行っているセックス像、および自分が理想とするセックス像というものを明確に持っているのです。セックスとは、基本的には性器と性器の結合および摩擦というごく単純な行為ではあるものの、その細部は個人的な取り決めや嗜好によって彩られていることを考えると、他人が描いたセックスというものにリアリティを感じないのは当然なのでしょう。
エロ小説が宿命的に持つ、微妙に「リアルでない感じ」は、しかしエロ小説の味でもあります。AVのようなものの場合、加藤鷹がやっていることを男性が皆やりたがってしまうといった、リアルさ故のはた迷惑な影響力がそこにはあるのです。対してエロ小説に、その手の影響力は無い。
エロ小説というのはしばしば、暴力やサスペンスとセットになっていて、勝目梓系の「官能バイオレンス」という一ジャンルが形成されていたりします。が、だからといって読者が暴力とセックスまみれの「ゴルゴ13」ばりの生活をしてみようとは思わない。また、神崎京介の大河エロ小説『女薫の旅』に代表される、「男性が、様々な女性とのセックス修業を続けながら流れ旅」というエロロードストーリーもまた、エロ小説界の一ジャンルであるわけですが、それを読んで「そうか、では俺も旅に」と思う男性は少なかろう。

フランス書院系エロ小説においては、時代時代の動きを取り入れた、ハードなプレイが描かれていたりもするわけですが、やはりそれは、目で見るナマのプレイとは違います。読んで興奮はしても、そのシーンが脳裏に焼き付くというわけではないのです。
してみるとエロ小説とは、様々なエロジャンルの中でも、最も「安全」なもの、と言うことができるでしょう。どれほどハードなことを描くこともできるし、それは読者に大きな興奮をもたらすのだけれど、読後感はスッキリとしている。団鬼六の小説でさんざ浣腸シーンを読んでも、映像で同じものを見るのとはわけが違うのです。
エロ小説の、この「リアルではない感じ」は、何事においてもリアルさを追求しなくてならない現代社会においては、むしろ救いなのかもしれません。腐女子と呼ばれる女性達に人気のBLもの、すなわち男の子同士が乳繰りあうストーリーも、一種の(というか完璧に)エロ小説であるわけです。しかしあれは、本物のゲイが読んでも興奮しないそうで、やはり腐女子達の妄想用として精緻に構成されているもの。
エロ小説とは、理想のセックスという、絶対に到達しないものに向かって進み続けている、実に健気なジャンルなのでした。しかしその健気さが様々な独特な言葉遣いや淫猥さ、そして読者の限りない妄想を産みだしている。
密壺と言ったり、秘肉と言ったり、ヴァギナと言ったり、あそこと言ったり。エロ小説は、永遠にたどり着くことができない女性器の周辺を、様々な言葉を使用してうろうろと巡り続けます。どのような表現を使用しようと、女性器というリアルな物体は言葉からするりと逃げていって、表現されることを拒んでいるようにも見えるのです。しかし、小説家達の「どうにかして、表現しよう」というチャレンジ精神は、時として映像以上の湿り気を私達に感じさせることがあって、その湿り気こそがエロ小説のエロ小説たる所以なのでしょう。
スポーツ新聞のエロ小説は、この先も絶対に、消えることはないのだと思います。何事も、望んでいない裏の裏まで見せられてしまう今、エロ小説が持つ「妄想の余地」は、私達にとって貴重な財産。通勤電車の中で人々がこっそり繰り広げる妄想の楽しみは、いつまでも続いていくのです。