「ああ、小岩駅(抜書) - 吉野孝治」ああ、鈍行鉄道人生 から

 

「ああ、小岩駅(抜書) - 吉野孝治」ああ、鈍行鉄道人生 から

雑務係(駅務係)の話

昭和三十九(一九六四)年十二月七日に日本国有鉄道(国鉄)千葉鉄道管理局の「臨時雇用員」として総武線小岩駅に配属された私は、昭和四十年四月一日に「準職員」として正式に採用された。 
これが私の鉄道人生の始まりであった。
職名は臨時雇用員の身分の時と同じ「駅務係」(この頃の「係」は「掛」という字を使っていた)。駅務係と言えば聞こえはいいが、一番下っ端の雑務係で、駅長事務室の「お茶くみ」、駅の「便所掃除」係というのが実態であった。勤務形態は「徹夜勤務」で、朝九時から翌朝九時までの二十四時間勤務である(この頃は、私たちにはこの一種類しかなかった)
私の指導係になってくれたのは二年先輩の白井善一さんであった。七十歳をとうに過ぎた今もいろいろな面でお世話になっている先輩で、名前は善一と書いて「よしかず」と読むのだが、どこでも「ぜんちゃん」で通っていた。小太りの体格ながら詳細に亘って気が利くので、上司からは信頼され、同僚からも好かれる穏やかな人である。
新米の私はいろいろな業務を白井先輩から教わるのだが、生まれながら要領は悪いし、人に教わるとなるとついつい緊張してしまう。だから、何をやるにもメモを取るのだが、書くことに気を取られ、どうしても大事なところが抜けてしまう。そうなるてメモにメモの付け足しだから、だんだんぐちゃぐちゃになる。そのわからないメモを使って仕事をするのだから、どうにもうまくいかない。
なかなか業務を覚えられない姿に、業を煮やした先輩たちが「お前の指導係は誰だぁ、呼んで来ぉいっ」と、お鉢を指導係の白井先輩に持っていく。
私の代わりにお小言をもらってきた白井先輩は決まって「よお、しのさぁん」と声をかけてくる。そして、ぼそぼそとした声で「あのさぁ、これはさぁ」とレクチャーが始まる。千葉の内房から来ているので房州弁をあからさまに使う。
そして、最後には「あんまり気にしなくていいよ、誰もが最初からうまくできる訳はないからね」と言ってくれた。後輩を気遣う先輩のその言葉は効いた。
失敗しても悪びれずにいたものの、自分がやらかしたことで先輩が怒られてしまうので、同じ失敗はしないように小まめにメモを取ることを心掛け、さらに自宅に持ち帰って書き直すようにした。

当時の小岩駅の駅舎は木造二階建てで南口にあった。一階には出札室(切符売り場)と改札室があり、二階は駅長室と駅事務室になっていて、その奥は泊り職員用の三十畳ほどの休憩室(寝室兼着替え室)があった。駅事務室も三十畳ほどの広さで、その奥に八畳ほどの駅長室があった。北口には小さな出札口(切符売り場)と改札口があり、その脇に風呂場が設けられていた。
駅務係の仕事に余裕はない。
朝九時に出勤し、制服に着替えて点呼を受けると、間もなく駅長や助役、庶務係へのお茶入れが始まる。駅長室へは誰も入るのを嫌がり、駅長から「誰かいるかね」と声をかけられると、直ぐに「お前行って来い」と助役も庶務係も互いに牽制し合って私らが行かされた。行けば駅長から仕事を押し付けられるのがわかっていたからである。しかし、私なんぞが行っても用が足らず、必ずまた助役か庶務係が呼ばれて入って行くことになる。そのときは決まって、「ちぇっ、役立たずが……」と言わんばかりに舌打ちされたものだった。
その頃の総武線はまだ高架化されておらず電車は地上を走っていて(高架化は昭和四十七年)小岩駅も地上ホームの島式で二面四線があった(上りホーム一面、下りホーム一面で、それぞれのホームのホームの両脇に線路がある状態)。上りホームの東京方の一線はホームの半分ほどが貨物線となっていて、五、六両の貨車が滞留できるようになっていた。貨物列車の連結、切り離し作業が週に一、二度行われるため、ベテランの操車係(貨車の連結を機関士に合図する係)と連結係が配属されていた。
操車係と連結係は連結作業のないときは踏切保安係や改札係の補助、そして、ホームでの「客扱い」担当として、電車の発車の際、乗客の乗り降りの安全を確かめて、赤旗を絞り車掌にドアの閉扉を合図する簡単な業務も行った。
私たち駅務係は「お茶くみ」「便所掃除」等の雑用のほかはほとんどこの「客扱い」に従事した。
この作業は一日中立ちっ放しなので足が疲れる。しかし、若い職員たちはホームに立つのが好きだった。この「客扱い」の間だけは助役や先輩たちから解放され、一人でホームに立って誰にも仕事を押し付けられないからだ。しかし、そうは言っても終電近くなると、疲れ切って足ががくがくしてくるので、ふくらはぎを叩いてなんとか乗り切るのであった。
平日の朝の通勤通学のラッシュは、来る電車来る電車みな超満員である。それでも乗客には乗ってもらわなければならない。ぎゅうぎゅう詰めの電車内に更にお客さんを押し込む駅員のこの仕事は、通称「尻押し」と言われた。「尻押し」はラッシュが終わるまでの一時半、ホームに立ちっ放しである。
しかし、これが終われば非番(退勤)になるという解放感があり、ほとんど苦にはならなかった。若い職員たちは非番日(鉄道業界で言う「非番日」とは、休日のことではなく、泊まり勤務を終えて退勤する日のことを指す)の予定を頭に描いてウキウキしながら「尻押し」をしたのだった。

 

列車の顔

 

駅のホームに「客扱い」で立っていると行き来する列車にはそれぞれ特徴があることが分かった。『列車とは停車場()外を運転させる目的で組成された車両をいう」と省令第二条第十三項に定められているように、駅の停留線に置かれたままの車両と違い、動きがある。
総武線の電車は十両全部が黄色一色であることから、通称「カナリア電車」と言われた。当時は一〇一系による車両編成であった。山手線からの二次使用ともいわれていたが、この電車はその頃の総武線の新型車両であり、ホームにもスマートにスーッと入って来る。ホームに立っていても胸のすくような爽やかさを感じられる電車であった。それはまさに房総と都会とを結ぶ、洒落た電車に見えた。
この頃の総武線のほとんどはこの一〇一系十両編成の電車であったが、ラッシュが終わる午前八時半過ぎに一本だけ、津田沼御茶ノ水行の『クモハ四一形』などの古い電車が走った。この電車はこげ茶色の車体にゴツゴツした厳つい格好をしていて「古武士」のように感じられた。編成は六両で他の総武線電車よりも短い。あえて言えば、不器用な大久保彦左衛門のような電車である。この「古武士殿」の容姿そのままに、でかい前照灯をぐわぁっと頭に乗せて千葉方面からひょたひょたと走ってくる。そして、ホームに入って来ると、そろ-っとブレーキをかける。が、ブレーキが効かない。慌てて更に強くブレーキをかける。だが、それでも効かない。うおっとととうっ、と所定の停止位置には滅多に停止できない。決まって、五メートルも六メートルも先に行き過ぎてから停まる。
この時間帯は通勤通学のラッシュが終わりかけた頃だが、それでもまだ多くの乗客が所定の乗車位置に並んで待っている。折角並んで待っていたのに、それを横目に「古武士殿」は停止位置のずうっと先に停まってしまう。乗車位置にきちんと並んでいた乗客たちは、仕方なく列を崩してばらばらと電車のドア口に駆け出して行って、ドアが開くのを待つのだった。
五、六メートルの停止位置不良なら良い方で、時には過走しすぎてホームの末端まで行って漸く止まることがある。ホーム中央にある「〇[ゼロ]信号」と呼ばれる信号も越えてしまう。
そんなときは駅の手前にある場内信号機に停止信号(赤信号)を「現示(点灯)」させてあとから来る電車を駅に進入できないようにしてから、当該の電車を「退行(バックすること)」させる。この作業は、信号係井上運転主任の腕の見せどころであり、その手際の良さは抜群であった。 
こうした場合はまず、隣りの市川駅の信号所に連絡して市川、小岩駅間に電車がないことを確認し、直ぐに場内信号機に停止信号を現示させる。その後、ホームの先端に止まっている「古武士殿」の車掌に「退行」してもいい、と連絡する。車掌が運転士に連絡して、漸く退行が始まる。
しかし、そもそもブレーキが甘い(効かない)「古武士殿」だから、今度は退行した先の停車位置も行き過ぎる。「往復ビンタ」というやつである。だから、車掌は本来の車両の停止位置にこだわらず、ドアがホームに掛かっていてお客さんが線路に転落しない位置に停車していさえすればドアを開け、乗客を乗り降りさせていた。すごく適当な運転捌きだった。そして、何事もなかったかのように平然として発車して行った。ひどい時には七分も八分も遅れ、早い時でも二、三分の遅れが常であった。

この頃は、房総方面、総武方面からの準急列車が小岩駅を通過していた。そのため「中線」と称して、下りホームの一線を上り線下り線の両方に使用できる『追い越し線』として設けて、普通電車を「中線」に入れて準急列車を通過させていた。
準急列車は両国駅から発着していた気動車で、クリーム色の車体に洒落た赤い線が入っていた。この頃はまだ房総方面の海水浴客の需要が多く、小岩駅を通過するときは「そこをどいてよ、どきなさいよ、私は『準』がついても急行よ。あなたたちとはちょっとちがうのよ」という顔つきで、ホームの中ほどまで来ると、決まって、ぶろぉろぉろろぉ-とエンジンを吹かす。その時が「そこをどいてよ、どきなさいよ、あたしは急行列車よ、準急よ」という表情を見せる瞬間だ。そして、この気動車の準急列車が通過した後は、「じゃじゃ馬」が通り過ぎたように構内が静かになったように感じられた。
貨物列車を牽引するのは皆さんご存じの蒸気機関車D51。D51は言わば「相撲取り」だ。煙突から煙をぶわぁぁ、ぶわぁ、と吐きながら走って来る。それでも都会に入って来たから煙は控えめにしているはずなのだが、機関車の黒い先端は相撲取りが頭突きをしようと突進してくるようだ。「そりゃあ、おまえらぁ、どけどけぇっ、どかねえと、吹っ飛ばすぞうっ」というように、どすどすどすっ、と重い足音を残して通過する。通過した後は、しらあっとして石炭の臭いだけを残して走り去る。
小岩駅での貨車の連結、切り離し作業があるときは、踏切が長時間閉まりっ放しになる。すると、蒸気機関車だから小回りが利かない。踏切で足止めされた利用客に大きな車体を小さく見せるその姿は「申し訳ないでごんす」というように、どっ、どっ、どっ、どっ、といいながら貨車を切り離し、また連結をして出て行く。はるか遠くまで煙をたなびかせて走る機関車は、いつまでもさようなら、さよならと言っているようであった。
このように、機械であるはずの列車にも血の通った人間のようないろいろな顔があるように見えたのも、当時ならではの事だったのかもしれない。