「はじめての読者 - 上橋菜穂子」物語ること、生きること 講談社文庫 から

 

「はじめての読者 - 上橋菜穂子」物語ること、生きること 講談社文庫 から

すべての道が閉ざされたときに新しい希望が生まれると言ったのは、トールキンだったでしょうか。
私が「こうなったら研究者になるしかない」と博士課程に進んだのは、もう作家になることはないだろうと、一度あきらたからでした。

学生のころ、はじめて千枚の長編を書きあげたとき、読者はたったのふたりでした。
親友と、弟です。
弟は身内ですから、お世辞は言ってくれません、つまらないと「ここはくだらん」と容赦がない。それなのに、いつの間にかノートが消えていて「早く書かんかい!」と言われたりする。「うるさいなあ」と言いながらも、私にとっては大きなモチベーションになっていました。読みたくて持っていっちゃうということは、本当におもしろいのかもしれない、と思えたので。
最初の読み手として、弟の正直な反応は信頼できたし、ありがたかった。
親友も、すごくいい読み手で、いつも的確なアドバイスをくれました。
たとえば私が、山間[やまあい]の村の穏やかな暮らしぶりを延々描写していたりすると「平和で豊かな村の生活もいいけれど退屈。ナホコ、もっと血が見たい!」と言われたりする。酸いも甘いも心得た主人公より、危なっかしいわき役の男のほうが魅力的だと言われたりする。
「だって、あまりにも安定感があると、読者にスリルを与えないでしょ」
なるほどなあ、と思いました。

 

 

いま思えば、最初の読者がこのふたりで、本当によかったと思います。
これがもし無数の声だったら、あのころの私には、とてもコントロールできなくて書けなくなっていたんじゃないか。弟も、親友も、故事来歴すべて知っている仲、気心の知れた相手ですから、何を言われようと「この人だから、こういう言いかたになるんだろう」ということも、わかります。だからこそ、どんなにダメ出しされようと、へこむことなく黙々と書きつづけることができたのでしょう。
臆病なもので、そのくらい人に作品を見せることがこわかったのです。
批判されて、落ちこむこともこわかったし、へたに賞賛されて、安易に満足してしまうのもこわいと思っていました。そこで満足してしまったら、たぶん書けなくなる。自己満足で終わってはいけないと思ったから、ふたり以外、人には見せず、ひっそりと書きつづけていました。

 

大学院修士課程のとき、五百四十枚の、私にすれば比較的短い物語が書けたので、はじめて誰か、プロの編集者にちゃんと読んでもらいたいと思いました。プロの目で見て意味があるものが書けたのかどうかを知りたくなったのです。
それで清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、偕成社に電話をかけました。
なぜ偕成社だったのかといえば、当時、偕成社は、浜たかやさんの『火の王誕生』という分厚い本を出していたからです。しかも『火の王誕生』はファンタジーでしたから、こういう本を出す編集者に自分の書いたものを見てもらいたいと思ったのでした。

 

「お忙しいところ、大変恐縮ですが、素人の持ち込み原稿を読んでいただきことはできるのでしょうか」
「できますよ」
電話口に出てきたのは、どうやら年配の男性でした。
そう言われて安堵したのも一瞬のこと。
「でもね、僕の足元には巨大な段ボールがあって、僕はいつもその段ボールに足をつっかけながら、仕事しているんだけど、その中にはたくさんの持ち込み原稿が入っているんです。誠実に読みますけど、だからたぶん半年以上はかかるだろうなあ」
「それでも、もちろんかまいませんので、ぜひ読んでいただきたいのですが」
「わかりました。じゃあ、送ってください」

 

原稿は、その日のうちに送りましたが、半年どころか一年経っても、なしのつぶてでした。あの本の編集者ならと期待をかけていただけに、ものすごく落ち込んでしまいました。
なんの連絡も来ないということは、私の作品なんて、箸にも棒にもかからないものだったんだ。もうダメだ、作家になる夢はあきらめよう ・・・ そう思ったからこそ、私は研究者になるべく、大学院に残ることにしたのです。
ただ、じつは、研究者のほうも、いったんはあきらめかけました。
なにしろ、研究者というのは、定職につけるかどうかわからない、じつに不安定な道ですから、そんな道に進んで、これ以上親に迷惑はかけられない、と思ったのです。だから、修士論文を書いたあと、そこでやめて、学校の先生になろうと思っていたのでした。
ところが、その修士論文を見て、審査をした教授のひとりがおっしゃったのです。
「上橋。この論文、ひどいよ。ひどいけど、俺、こんなに何かがある修士論文を見たのは、久しぶりだよ。足りないところは山ほどあるけど、いいよ。おまえ、研究者になりなよ」
「なれません」
これ以上、親に甘えたくない。自分は就職するのだ、そう心に決めていたはずなのに「なれません」と口にしたとたんに涙がぶわっとあふれて、とまらなくなりました。
「なんだなんだ」
「おいおい、俺たちが泣かしたみたいじゃないか」
あわてふためく教授たちの前で、お恥ずかしいことに、私は、泣きつづけました。
廊下で審査を待っていた大学院の友人たちも、びっくりして「なんだなんだ」「審査って、そんなに厳しいの?」とくちぐちに聞かれました。
「ちゃうねん!」
言いながら、まだ涙は止まりませんでした。
小説もダメで、研究者の夢もあきらめなきゃならないとしたら、私は、この先どうしたらいいのだろう。
希望は時に残酷です。やはり捨てきれない夢に気づいてしまった私は、思い悩みました。
人の何倍も長いあいだ、親の脛をかじって生きる。その上、就職できる保証もない。そんな人生を選ぶことを申しわけない、恥ずかしいと思いながらも、考えに考えぬいた末に、どちらかになれなければ、生きている甲斐がないと思えてきて、親に相談しました。
うちはさほど裕福ではありません。それでも、私の両親は、子供が学びたい、ということを、目を輝かせて後押ししてくれる人たちでした。アルバイトをし、奨学金をもらい、それでも足りない分は出してやる、やってみろ、と背中を押してもらって、私は博士課程へ進む決心をしたのでした。

 

「上橋さん、引き返すならいまよ。いまならまだまともな人生が待ってるわよ」
私が、やっぱり大学院に残りたいと言ったとき、指導教授は、そう諭してくださいました。いま、私が誰か、学生に同じことを言われたら、きっと、もっと厳しいことを言うでしょう。なにしろ、博士課程を出ても大学への就職はとてつもなく狭き門で、しかも、大学卒業後二年の修士課程、その後三年以上の博士課程を経てしまえば、もう、三十近くなっていますから、一般企業へ就職したくとも、まず無理、ということになってしまいます。
それでも、引き返す、というわけにもいかないので、私は大見得を切ったのでした。
「研究者、一生やります」
言いきったからには、もう前を向くほかはない。
それなら、これまでの国内調査ではなく、海外に-異文化の中で、大きなテーマに取り組みなさい、と、教授はおっしゃいました。まったく新しい分野に挑むのだから、まずはアルバイトをしながら聴講生をやり、その期間に、アボリジニに関しての先行研究をじっくり学び、自分なりの方向性を見つけなさい。そのうえで、博士課程の試験を受けなさい。それでもやるというなら、やってみなさい。
そうおっしゃっていただいて、私は、研究者への道に足を踏みだしたのでした。 

 

なんの当ても保証もあるわけではないのに、就職する道を棒に振って、自分は何をしているのだろう。恐ろしく思う気持ちもありましたけれど、それはある意味、私にとっては、自分の逃げ道をあえてなくす、背水の陣でもあったのです。
世の中って、なんでこうなるの?と思うことが時折起きるものですが、「一生研究者として生きます!」なんぞと大見得を切ったあと、ほどなくして、べろっと一枚、ハガキが来たのです。
そこにはこう書いてありました。
「御作、読みはじめました。それにしても才能を感じます。一度会いましょう」
それは一年以上もまえに「原稿を読んであげますよ」と言ってくださった編集者からの返事でした。うれしくて、何度も読み返したので、いまでも一字一句、暗記しています。
当時、日吉の駅前にあったカルチェラタンという名前の喫茶店で会うことになったのですが、待っていたのはなんとなくこわそうなオジサマで、それが偕成社の名編集者さんとの出会いでした。
「上橋さんね」
「はいっ」
「小学校の一年生で十枚、六年生で六十枚しか読めないと言われているこの時代に、新人の五百四十枚、誰が読むの?」
誰が読むの、と言われましても・・・。
「まずは四百枚に縮めてごらんなさい。自分で削るというのも、すごくいい勉強になるはずだから、冗長な部分を削ってごらん」
「わかりました」
「それから・・・」
「はいっ」
「君は、心臓が強いね」
「は?」
なにか失礼なことでもしたのかと慌てる私に、名伯楽はにやりと笑って、こう言いました。
「人間は、句読点で息継ぎをしながら読んでいる。君の文章は、一文が長すぎる。じいさんだったら、死ぬよ」

最初に出会った編集者がこの方だったことは、本当に幸運だったと思います。
それ以来、原稿を手直ししては見ていただいたのですが、小手先のことは通用しないことを思い知ることになるのです。
「上橋さん」
「はいっ」
「僕はもう、何十年も編集者をやっているんだよ」
「はあ」
今度は何を言われるんだろうと、身を硬くしていると彼は微笑みました。
「原稿、短くしたっていうけど、僕は、君が何をしたか、ひと目でわかる。文章を削らずにすむように、改行を詰めて追いこんだでしょう。
その通りでした。改行を詰めて詰めて、余白を繰りあげることで、なんとかページ数だけは減らしたのを、ひと目で見抜かれてしまったというわけです。 
「いいかい。それだとよけい、息苦しくなってるでしょう。子どもたちは、ページを開いたときにみっちり字で埋まっていて余白がないと、息苦しいと思うものなんですよ」

 

プロの編集者の目、さまざまな読書力を持っている多くの子どもたちの姿をはじめて意識したのは、あのときだったのかもしれません。
恥ずかしながら、私は、自分が本の虫だったので、それまで文章の呼吸については考えたことがあっても、本を読むのが大変な子のことを意識したことはなかったのです。
ひとりよがりにならないことは、プロが心得るべき基本でした。
それで思いきって五百四十枚を四百枚に削る作業をしたのですが、百四十枚削るとなると、気に入っていたエピソードをバッサリ落とさないと、とてもじゃないけで、追いつきません。自分の血や肉を削る思いで、いくつも捨ててみて、はじめて「あ。捨てられるんだ」ということにも気づきました。
それは、自分でも気に入っていた、すごくいいシーンでした。
でも、どんなにいいシーンでも、物語全体を通してみると、ほかのシーンの邪魔をしていることがあるのです。それをとったら、突然息が抜けるように、ストーリーが動き出したり、まとまったりする。
そこまでやっていても、編集者さんは、最後まで「本になります」とは言ってくれませんでした。それでも私は、プロの意見が聞けることが幸せで、どきどきしていました。いただくアドバイスはじつに的確で、毎回こんなおもしろいことはないと思いながら、ダメ出しをされては書き直し、という作業を続けたのでした。

「上橋さん」
「は、はいっ」
「これ、プロの作家だったら、これだけいろいろ詰まっていると三冊が四冊は書いちゃうよ」
「そ、そうでしょうか」

 

そう言われた意味も、いまならわかります。
人類学を学びはじめ、書きたいと思ったあれもこれも全部、詰めこんでいたから、あれわいま、もう一度書けと言われても、できないと思います。つたないところはたくさんあっても、あれは、あのときたから書けた物語なのは確かなのです。
私が、自分の本が出ると知ったのは、本屋さんに置いてある「これから出る本」というリストに、タイトルを見つけたときでした。
タイトルを見ても、まだ信じられませんでした。信じられないから、確認することもこわくて、電話することもできなかったのです。
万一、電話で確認して「あれ?手違いで、誰か載せちちゃったのかな」なんて言われでもしたら、どうしよう。そんな恐ろしいやぶへびは、とってもできませんでした。

デビュー作の『精霊の木』が無事に書店に並んだとき、私は、二十七歳になっていました。
作家になることは、もう、ないだろう。そう思ったから、研究者になろうと背水の陣で博士課程に進んだのに、念願の作家になることができたのです。
そして『精霊の木』と『月の森に、カミよ眠れ』の印税がなかったら、フィールドワークを続けることができなかったかもしれません。学生時代の私は、研究費はほぼ自費、全部持ち出しでしたし、調査対象地のオーストラリアは物価も高く、往復するにも航空運賃がかかりましたから。
すべての道が閉ざされたときに、新しい希望が生まれる。
不思議なめぐり合わせを感じながら、私は、研究者と作家、その両輪で走りだしたのです。