「随筆家失格 - 澁澤龍彦」〆切本2 から

 

「随筆家失格 - 澁澤龍彦」〆切本2 から

随筆を書けといわれると、私はいちばん往生する。テーマがきめられていればよいのだが、そうでない場合、書くべきテーマが容易に見つからないのである。
もともと私は身辺雑記を書くことを好まない。女房がどうしたとか、子どもがどうしたとか、そんなことは私の生活において、ほとんど何の意味ももっていないからだ。第一、私には子どもなんぞいやしない。だから身辺雑記を書くのを好まないというよりも、そもそも私の身辺には書くべき雑事が存在しないといったほうが正確であろう。人間関係のごたごたには、首を突っ込まないで生きているのである。
どちらかといえば私にとっては、季節の移り変りや自然のほうが、まだしも随筆に書きやすいといえるかもしれない。私は北鎌倉に住んでいるが、ここには四季を通じて、鳥の声や虫の声が豊富であり、折々の花にもめぐまれているからである。しかし、それももうすでに何度となく書いてしまった。
だから、どうしても少年時代の思い出とか、戦中の回想とか、あるいは外国旅行や国内旅行のエピソードとかいった、非日常的なテーマを採りあげることが多くなる。しかし、これもまた一冊の本にするほど、今までに私はたくさん書いてしまったから、もう正直にいって種切れである。
目を自分の周囲に向けてみると、たとえば机の上に愛用のパイプだとか、万年筆だとか、あるいは文鎮として使っている刀の鍔[つば]だとかいったオブジェが見つかる。これだって、立派に随筆のテーマになるといえばいえるであろう。げんに私は「パイプの話」などという随筆を書いたことがある。しかし、これらのオブジェをテーマとして、うまく一篇の随筆を組み立てるのは、やはりなかなかむずかしいといわねばならぬ。
たった二枚か三枚の随筆のために、書くべきテーマが見つからないで、二日も三日も、うんうんいって原稿用紙をにらんでいるのは、まことにばかばかしいような気がしないでもないが、そういうことが私にはしばしば起るので、つくづく閉口している次第だ。
もしかしたら、私はテーマにこだわりすぎる人間なのかもしれない。テーマなんかきめずに、どんどん話をつないでゆけばよいのかもしれない。それが日本独特の随筆というジャンルの骨法なのかもしれない。そうだとすれば、私は随筆家失格である。