「父の郷里にて ー 里見弴」朝夕 感想・随筆集 講談社文芸文庫 から

 

父の郷里にて ー 里見弴」朝夕 感想・随筆集 講談社文芸文庫 から

 

私の父は、天保十三年、薩南、川内、平佐の城主、北郷氏に仕える貧しい下士、有島家の嫡子として生れ、幼名、武助、のち武[たけし]と称した。母は、安政二年生、南部藩士なる山内家の女[じょ]で幸子[ゆきこ]といった。標準語の普及した今日でも、可なりわかりにくい言葉が多いのに、ましてや明治の初期の、南と北のはずれから出て来た同志の新家庭では、往々にして、相手の意を汲みかね、滑稽な間違いが生じたそうだ。殊に父の母なる者と嫁、即ち幸子との間では、父を通弁に頼まないかぎり、絶対に、といってもいいほど意志の疎通を欠くので、父の留守中は無言の行[きょう]の態[かたち]だったというのも、さこそと頷かれる。
三人の兄、二人の姉の次に、言い換えれば、第六番目の生を享けた私は、その二日前に母の弟なる当主が病死したため山内の家名が断絶すべきだったのを、私をして継がしめることになったのだそうだ。だから私は、生まれときから姓は山内、名は英夫で、里見★とんというのは、後年みずから選んだ筆名だ。が、育ったのは有島家で、ほかのきょうだいと寸分の差別もなかった。
名義だけにもせよ、母の生家を継がされていたので、十四歳の夏、そのまだ数人生き残っていた親戚の者たちに紹介[ひきあわ]せのため、盛岡につれて行かれたことはあるが、父の出身地には、どういう廻り合せか、よい機会がなくて、古稀と呼ばれるこの年齢[とし]になるまで、申訳のない無沙汰のうちに過ごして来た。今春(三十二年)三月初旬、兄、生馬の回顧展が鹿児島市に新設された美術館で催されるにつき、誘われて同行した次第。

 

 

用事の都合で先発した兄と、その娘なる暁子とのあとを追って、博多市外、二十日市なる旅舎で落ち合った私たちは、その夜、寝台がとれず、「薩摩」と呼ばれる列車の特二の椅子で、眠っては覚め、覚めては眠りのうちに鹿児島に着いたのが早暁五時、ヒーターの利いた車室から、南国とも思えぬ酷寒の歩廊に降り立ち、宿舎に運ばれる。二十帖あまりと思ぼしき広間に通され、兄や姪と顔見合わせて、しばし呆然たるものがあったが、一浴の後、もっと狭い部屋に床を敷いて貰い、寝不足を補う。
起き出ると、陽[ひ]は既に高く、岩崎谷の丘上なる宿のヴェランダの正面に、想像したよりもはるかに近く大きく、あこがれの桜島が聳え立っていた。梅原君があれほどまでに打ち込んだだけあって、実に秀麗な山容で、朝夕こういう美しい景観と相対していられる鹿児島市民が妬ましくなるくらいだ。戦前は知らず、今の市街は、雑風景きわまりない。「十で神童、十五で才子、二十歳[はたち]すぎればただの人」という言葉があるが、もし当市に桜島がなかったなら「ただの市」か、或はそれ以下だろう。いつまでも見飽きのない立派さで、私はまったくひと目惚れに惚れ込んで了った。
或る日、島に渡って、大正溶岩で大隅と繋がり、厳密には半島となって了ったあたりよりももっと先まで、道路の許すかぎり、ドライブさせて貰ったが、この火山は遠目にだけよくて、そばへ寄るとうんざりさせられるような、そんなインチキな、チャチなものではなかった。文明年間(西暦一四一七年)の爆発以来の、四種類の熔岩にそれぞれ特色があり、随って行く先々の景観に変化がついている。時おり見上げられる頂上に、噴煙や水蒸気の立ち騰[のぼ]っている様も、・・・あちらの方言で謂う「他所者[よそもの]」の目には珍らやかだった。
爆発のたびごと、人畜や耕地に少なからぬ被害を蒙[こうむ]っているにも拘らず、居を安泰の地に移す者がいないというのは、勿論、父祖の地に対する愛着によるところだろうけれど、一つにはまたこの山のもつ魅力に、・・・意識するしないは別として、強く惹かれているからのことと思われた。
万が一にも、私に、肉親や故旧との絆を断ち切り、晴耕雨読の独居に堪え得るような、そんな心境にはいれる時が来るとすれば、その暁には、ここらに茅庵を結びたいと夢みるような個所も二三あった。・・・悪戯ッ児の暁子がここを読んだら、必ずや、「それアちょっと無理だわね」と、にやにやするだろうけれど。
或る日はまた魚釣りにつれて行って貰った。朝、西北の風が強く、案内の人が目指した白浜燃島方面の釣り場へ行けず、波静かな島蔭へ舳[へさき]を向けなければならなかったり、私にはさっぱりわからなう潮加減が悪かったり、思わしからぬ条件が重なったとかで、至って不漁ではあったけれど、八時から四時までの、寒風の海上に在って、五六十ッぴろの海底へ、何遍となく糸を往復させ得た自分の体力を、ひとり密かに祝福しつつ、愉快を感じたことだった。

 



着いた翌日、現在は川内市編入されているのだそうだが、依然は平佐村と呼ばれ、今もって多少とも旧態をとどめている街はずれに向ったのは、そこが父の出生地であるからだった。父は、その地で島津家の出城のひとつを守る主たる北郷氏の家来、有島家の嫡男として、天保十三年に(西暦一八四二年)呱々の声をあげた。四五歳の頃、大抵の場合それであるところの正室と側女との間に生じた主家のお家騒動に連座して、父の父なる者も罪を得て遠島を仰せつけられた。種子ケ島と言う者あり、大島と説く者もあるが、なんらの文献も残ってはいない。終生己を語ること甚だ稀だった父だが、微かながらその折の記憶は残っているらしく、次のように話していた。
暑い頃が、寒い時か、季節の覚えはないが、未明に提灯を手にした役人どもが来て、深網笠を被せ、馬にくくりつけて拉致されるのを、密かにあとを追いつつ見送ったという。恐らく父一人ではあるまい、その母も、その頃まだ存命だったわれわれから言っての曾祖父も、暁闇を幸い、見え隠れについて行ったのではなかろうか。同囚十一人数珠つなぎに、しめやかな馬蹄の響きが遠ざかって行ったことだろう。
寺子屋時代同門だった或る老人の語ったところによると、父の勤勉は群を抜いていたとか。「郷中先生[ごじゅうせんせい]」と呼ばれたお師匠様の、まだ鎖[とざ]されたままの門扉の傍に、或る朝、石ころの如きものを認め、何ならんとすかし見ると「武[たけし]どん」が頭から羽織をひッ被って、漢籍を睨みつめていたという。その甲斐あってのことか、十三とか四とかいう弱年で、早くも主家の祐筆として出仕を差し許されている。勘定方というから、些少な出納の帳附けぐらいの役目だったらうけれど、罪人の父をもつ下士の家の子としては、そうとうの抜擢だったのかも知れない。のち島津家に仕えるようになり、十六歳で初めて江戸にのぼったとか、その折、振り分けに肩に担いで来た今日な手提鞄ほどの竹行李は、いつの頃までか知らないが、大切そうに保存されていて、少年の私が、倉の二階で何やら捜し物でもしている様子の母に甘えに行ったりすると、よくその古ぼけた行李を見せられ、一場の訓話まで聞かされたものだ。
晴れてはいたが、風の冷たい日だった。父の存命中はまだ青年だったような、父の遠縁にあたる老人その他の人々に導かれ、城山に添う南側の道路にかかると、小学校の先で急に田舎びて来、右手には広々とした耕地が見渡された。兼喜神社の前から左にきれ、ややS字型に彎曲した道の行きあたりが、父の生れた屋敷跡だった。否、家もあるが、後年改築が加えられた由。そんなものはなくとも、日だまりでこそあれ、侘しい山蔭なる猫額大の敷地を眺め廻しただけで、涙が視野を朦朧たらしめて了った。

 



鹿児島にとっての桜島ほどではないにしても、大淀川は宮崎市を立派に「ただの市[まち]」から救っている。灌漑とか交通とかの実利は姑[しばら]く措き、市の品位を立ち優らせるのは偏[ひとえ]にあの川のもつ豊かさだ。
宮崎神宮の清々しさには、なんとなく謙虚な感じが伴って誠に快かった。「飫肥[おび]杉」と聞かされた用材も、肌目、色調共に美しいと思った。
青島もいい、わずかに小径を通じただけで、臥木、落葉、なるがままに任せてあり、原始林の面影さえたたえた檳榔[びろう]の密生には、ただ珍らしいというだけではなく、じかに胸へ響いて来る何かがあった。・・・太古に対する郷愁[ノスタルジー]とでも言おうか。
「子供の国」がまたなかなかよろしい‼ああいう場所につきものの俗悪さが、・・・皆無、とは言えないまでも、他とは比べものにならないほど稀薄だ。強いて子供の御機嫌をとろうとも、また大人の歓心をかおうともせず、さも素ッ気なげでいて、その裡[うら]に、設計者の、自然に対する愛情がにじみ出ている。入場者も入場者だが、それ以上に自然を大切にしたい、という気持、敬服に値する。
西都原[さいとばる](宮崎県児湯郡)は更に数段の上のよさだ。あの台地全体の景観には、[天壌無窮]という言葉を聯想させるほどの悠々さがある。発掘されている横穴式の古墳は、なんらその方面に智識をもたない私にさえ大層面白かった。小山ほどもある女男[めおと]の陵や、その周囲の雑木林など、一般の遊覧客に公開するのは惜しいくらい幽雅だ。親切に案内してくれた日高正晴氏の学問に対する熱情は、おのずとこちらへもうつって来て、楽しさを倍加させてくれた。たっぷり時間があったらと、立ち去りかねる想いだった。
これは定着した施設でないからここに連ねて書くのは如何[いかが]だけれど、折から開催されていた移動の動物園では、生れて初めて拝顔の栄に浴した鳥、獣[けもの]がどれくらいいたか知れない。私は、自分で自分を、人並はずれた動物好きとは、かつて思った覚えがないのだが、二日の滞在中に二度も見に行き、少々自分ながら呆れ返った次第だ。
指宿の宿から四方を見晴す気持もなかなか悪くない。ひとッ走り、長崎鼻へ行き、海を前景に入れて見る海門岳[ママ]は、天気都合にもよろうけれど、素晴らしくよかった。
総じて今度の旅では、いろいろと美しいもの、よいものがみられたし、同行は兄と姪だし、少しも不足の言うところはなかった。事実大満足だ。ところでここに三大難物があった。演壇に立て、原稿を書け、揮毫しろ、・・・天国の遍路にも、何かこれに類する障害物が横たわっているのかしら。
(昭和三十二年三月「南日本新聞毎日新聞九州版」)