「小諸のおもいで - 島崎藤村」岩波文庫 藤村随筆集 から

 

「小諸のおもいで - 島崎藤村岩波文庫 藤村随筆集 から

 

浅間の麓では、あの石ころの多い土地にふさわしい野菜がとれる。その一つに、土地の人たちが地大根と呼んでいるのがある。練馬の大根なぞを見た眼には、ずっと形もちいさく、色もそれほど白くなく、葉を切り落とした根元のところは蕪のような赤味がかった色がある。長い冬のために野菜を貯える頃が来ると、あの大根を洗って沢庵[たくあん]に漬けて支度をするのが小諸辺での年中行事の一つになっている。小諸の馬場裏の方にあった私の旧い住居でも、日あたりの好い土壁のところへ毎年のようにあの大根を掛けた。私は東京から出掛けて行って、初めて家を持った頃には、よくそう思った。この土地にはこんなあわれな大根しか出来ないのかと。一年暮し、二年暮しするうちに、不思議にもあの堅い大根で漬けた沢庵には、噛みしめれば噛みしめるほど何とも言われない味が出て来た。上州あたりの大根なぞは、あれに比べるとむしろ水臭いと思うようになった。あの大根の味を噛み当てた頃から、私の小諸生活は初まったと言ってもいいような気がする。

 

蕪で思い出す。私が小諸で暮した頃は、木曽の姉もまだ達者でいる頃であった。私は木曽の蕪の好いことを思い出して、姉の許[もと]からその種を取りよせ、小諸の在[ざい]の小原というところにいる塩川老人に頼んでそれを試植してもらったことがある。あの年の秋、老人はこんな好い蕪が出来たと言って、木曽の蕪と殆んど変りのないようなやつを私の家まで背負って来てくれたことがある。ところが、変った土地に移し植える野菜は多く一年ぎりのものと見えて、翌年その蕪から取れた種を蒔いても同じものは出来なかったとの老人の話であった。木曽の蕪はどこまでも木曽の蕪で、遂に小諸のものとはならなかった。

 

小諸には鬱蒼とした竹の林と言い得るほどのものが殆んど見当たらない。真竹[まだけ]、孟宗[もうそう]の類は、あの地方には十分に成長しない。春先の筍[たけのこ]で、土地の人たちの食膳に上るものは上州地方の産だ。そういう土地柄ではあるが、馬場裏の隣家の裏手には細い竹の藪があって、そこから細い筍が取れた。うま煮にしたではそれほどでもないが、あの細い筍を輪切りにして造った味噌汁には普通にない好い味があったことを覚えている。

 

塩漬にした黄色い地梨[じなし]、梅酢で漬けた紅い寒臘梅[かんろうばい]なぞも、小諸での茶の時を思い出させる。土地の人たちは茄子や紫蘇の実の味噌漬をつまみながらでも茶を飲んだ。それほど小諸あたりの人たちは茶が好きだ。

 

五ヶ月もの長い冬を通り越した後、旧い野菜は既に尽き、新しい野菜にはまだ早いという四月の頃ほど、食卓の上の単調でさみしい時はなかった。
「若布[わかめ]はようござんすかねえ。」
という越後路からの女の若布売の声を聞くのも、あの頃だ。山椒の芽の青く萌え出す時分になって、その香[にお]いの好い焼きたての田楽なぞを嗅いで見る心持は、山の上の冬籠りの経験のあるものでなければ伝えられない。木の芽が田楽になり、筍が鮨になり、蓬[よもぎ]が餅になる頃は、馬場裏の住居も楽しかった。

 

小諸では「おにかけ」というものをつくる。土地の人たちはそういう麺類で食膳の単調を調節して行く。同じ馬場裏の近くに住んでいた仕立屋なぞではよくあの「おにかけ」をつくった。

 

蕨取[わらびと]りは、気散じなものではあるが、しかし何となく憂鬱な感じを伴うものだ。秋の栗拾い、それから茸狩りなぞとは趣きを異にする。あれは春先の山の上にある憂鬱だ。

 

馬場裏の家は草葺で、落葉松[からまつ]の枯枝から出来た生垣には、南瓜の蔓を這わせたこともある。ある年のこと、南瓜の蔓は生垣を覆うばかりに延びて、黄色い徒花[あだばな]の咲いた後には沢山な南瓜が生[な]った。私の家では食いきれないほど沢山に取れた。近くにある桑畠の持主から抗議を申し込まれて見ると、あの南瓜は近い桑畠の肥料を吸い取ってしまったものと分かった。あれぎり南瓜を生垣に這わせることも止[よ]した。

 

私は小諸に住んで見て、土地の人たちのすることから日に二度ずつ味噌汁を食膳に用意することを覚えた。朝の味噌汁はもとより、夕の味噌汁に何か一皿添えるものがあれば、それでも食事は楽しかった。

 

鮠[はや]は千曲川で釣れて、馬場裏の私の家まで売りに来る人がよくあった。同じ河魚でも、香魚[あゆ]、岩魚[いわな]、赤魚、たなひらの類は少かった。河鰻となると更に少かった。何と言っても、小諸辺では鮠だ。土地の人たちが千曲川の岸へ酒を提げて行って、河から釣ったばかりの鮠を魚田[ぎよでん]にして味わうなぞは、ちょっと旅の人の知らないことだ。鮠の魚田も香ばしい。

 

小諸辺での鯉は、私はあまり好かない。それは水田に放して養うとか聞くが、そのせいかして、どうもあの鯉はすこし泥臭い気がする。鰻はまた、あの地方では贅沢なものの一つになっていた。遠州の鰻を諏訪までかつぎあげて、あの湖水で泥を吐かせたものが、山越しに小諸へ廻って来るという話だった。

 

林は深く谷も深い郷里の木曽地方に小鳥の類が多くて、高原地の佐久地方にそれの少ないのは不思議でもないかも知れない。つぐみ、あとり、みやま、ひわ、その他の豊富な木曽地方では、雀は殆んど食用の小鳥の部には入っていない。小諸へ行って見ると雀を焼いて味う人のあるのを見た。上田の町はずれに鴉[からす]の田楽というものを焼いて売る家すらもあったと聞いた。一体に、佐久から小県[ちいさがた]の地方にかけては、それほど小鳥の類は少い。

蕎麦は信濃の名物の一つに数えられる。小諸あたりで、何か祝いでもある時の馳走はと言えば、酒のあとで客に蕎麦をもてなす。東京の蕎麦屋で出すものを食い慣れた口には、ちょっと想像もつかないような好い蕎麦をつくる家がある。医師の佐野さんの家でよばれたものなぞは、主人公の自慢なだけあって、青い光沢があり、しっとりとした味があって、こんな好い蕎麦もあるかと驚いたくらいだった。しかし、今になって振返って見ると、蕎麦でも好く出来ようという地方は、その一面において地味のそれほど肥えていないということの証拠にもなる。あの浅間の麓の岩石の多い地勢に、至るところの畠に見られるものは、それが好い野菜であるよりも桑であるという事実は、何よりも有力にあの地方の風土を語っている。そういう土地にあっては、人は激しく自然と戦わねばならない。そこにはまた非常に勤勉な人たちが住んでいる。男でも女でも激しい労苦にならされていた。