「刑法 無差別放火殺人における実行の着手 - 東京大学教授 和田俊憲」法学教室 2023年12月号

 

「刑法 無差別放火殺人における実行の着手 - 東京大学教授 和田俊憲」法学教室 2023年12月号

 

東京地裁立川支部令和5年7月31日判決

 

■論点
多数の客体を概括的に認識して遂行される放火殺人では、いかなる基準で実行の着手を判断すべきか。
〔参照条文〕刑203条・199条・43条

 

【事件の概要】
自殺を決意した被告人は、複数人を殺害して死刑になるしかないと考え、走行中の電車での放火等による多数の乗客の殺害を計画し、令和3年10月31日の夜、走行中の京王線特急電車3号車内で、殺意をもって乗客Aの胸部をナイフで突き刺し(要加療3か月の傷害)、さらに5号車内で、6号車寄りの優先座席前の部分(以下「A部分」)および6号車との連結部分(以下「B部分」)付近にいたBら多数の乗客に対し、殺意をもって、1~2mの距離からその身体等を目掛けてペットボトルに入ったライター用オイルを撒き散らすなどしたうえ、所携のライターを点火し、A・B部分付近にいた乗客らを目掛けて火が点いた状態の同ライターを投げて、A部分床面のライター用オイルに引火させたところ、その火は床に燃え移り(焼損面積約0.09㎡)、炎が被告人と乗客らとの間で激しく燃え上がったが、その間に乗客らはB部分を通って6号車に退避したため、乗客らの着衣等には引火せず、火傷を負った乗客はいなかった。
被告人は、Aに対する殺人未遂、Bら12名に対する殺人未遂、および、特急電車に対する現住建造物等放火(刑108条:現在電車放火)等で起訴された。
【判旨】
〈一部犯罪不成立〉本判決は次のように述べて、Bら12名に対する殺人未遂罪の公訴事実につき10名についてのみ同罪を認め、残り2名との関係では実行の着手を否定した(懲役23年〔確定。求刑懲役25年〕)。
(i) 「前記認定事実に加え・・・・被告人が乗客らに向けて合計で約2.5lのライター用オイルを撒いたことにより、乗客らの着衣や身体にはライター用オイルが付着し、A部分の床上にはライター用オイルが溜まった状態であったことや・・・乗客らが荷物の散乱する連結部に押し寄せて相次いで転倒したり・・・したため、乗客らが連結部を速やかに通り抜けて6号車へと逃げ出すことが容易な状況ではなかったこと・・・ライター用オイルは、撒いた瞬間から揮発が始まり・・・簡単に引火する性質を有し・・・引火すれば瞬時に床面に火が広がり、乗客の身体や着衣等にライター用オイルが付着していれば、炎が触れることで引火する可能性があったこと・・・被告人は、当初から持参したライター用オイルにライターで火を点け、乗客らを焼き殺すつもりで犯行に及んだ〔ことから、〕A部分およびB部分に乗客らが滞留し・・・ていることに気付いた被告人が、その人だまりに向けて持参したライター用オイルを撒き、ライターを取り出して点火し、その火をオイルに着火させるまでの行為は一連一体の行為ととらえるべきであり、被告人がライターに点火した時点で、A部分及びB部分にいた乗客らの生命侵害に対する現実的で具体的な危険性があると評価〔できるから、〕殺人の実行の着手があったと認められる。」
(ii)  「5号車と6号車は連結部を隔てた構造となっており・・・ライター用オイルの引火性の程度や危険性を踏まえると、5号車内に発生した火が直ちに連結部を超えて6号車に及び、そこにいた乗客の生命に対する具体的な危険が生じるとまでは認められないから、A部分及びB部分にいた乗客について〔実行の着手の〕対象とすることについては合理的な理由がある。・・・〔乗客〕C及びDについては、ライターを点火した時点において、A部分及びB部分にいたと認めることには合理的な疑いが残り、殺人の実行の着手があったとはいえないから、殺人未遂罪は成立しない。」

 

【解説】
1 本判決は、いわゆる京王線無差別殺人未遂事件の第1審判決である。社会の耳目を集めたのは特徴的な犯行形態であるが、法的には、殺人の実行の着手のタイミングと客体の判断方法に特徴がある。
2 本判決は、被告人による乗客の焼殺計画を前提に、①オイルの撒布行為→②ライターの点火行為→③オイルへの着火行為の全体を「一連一体の行為」としつつ、②ライター点火行為の時点に殺人の実行の着手を認めている。ここでは、③よりも前倒しできる理由と、①までは前倒ししない理由が問題となる。
最終行為の③より前倒しできることは、クロロホルム事件判例(最決平成16・3・22)の判断枠組みから説明できよう。②は③の不可欠な前提行為として③に密接な行為であり、かつ、②の直後に③は容易に実行可能だから②の時点で殺人の客観的危険性も肯定することができる。
同じ理由で①まで前倒しできそうだが、検察官が主張しなかった。本件は放火殺人の事案類型であり、放火罪と殺人罪は観念的競合だから、「一個の行為」を構成する放火行為と殺人行為の実行の着手は時点を揃えるのが自然であるところ、放火罪では、媒介物の設置は予備にとどまると解し、その後の点火行為に実行の着手を認めるのが一般的である。自然さの問題にすぎず、殺人罪のみ実行の着手をオイルの撒布行為に前倒しすることは、理論的には可能だと思われる。
3 本判決のもう1つの特徴は、客体の場所に着目して客体ごとに実行の着手を判断していることである。「生命侵害に対する現実的で具体的な危険性」を殺人の実行の着手の要件とするならば、実行行為は1個であっても着手の肯否を客体ごとに判断するのは当然であり、本件では床のオイルの燃焼のみが危険性の源である(被告人の追撃は想定されない)から、各客体が点火の時点で危険性が認められる場所的範囲内に存在したかどうかをみる判断方法は、首肯できる。
これに対して、行為者の計画に照らした犯行の進捗度のみで実行の着手を判断する最近の有力説からは、本件ではC・Dに対する殺人未遂も認めるのが自然であろう。状況の激しい流動性と人間の認識の概括性を前提にすると、直前に6号車に退避した乗客は殺害計画の対象から外れたとするのは難しいと思われる。
ちなみに、本判決は、被告人が乗客の滞留状況を見て放火殺人を最終的に決意した、その時の認識に基づき、「不特定多数の乗客を殺害しようとする概括的な殺人の故意」を認めており、点火時点までに6号車に退避した乗客も故意の対象からは外していない。