「歴史の中の元気美人 正岡律 - 佐野洋子」 朝日文庫 あれも嫌いこれも好き から

 

「歴史の中の元気美人 正岡律 - 佐野洋子」 朝日文庫 あれも嫌いこれも好き から

 

人類史上傑物であった女は沢山居た。七つの海を支配した女王も、関係した男を全て、芸術家に仕立てた女も、又、自分自身が優れた芸術を生み出した女性も居た。彼女達はエネルギーを外へ向かって爆発させた。
正岡子規の日本の文学史上に残した業績は忘れられることはないと思う
多くの明治の文人達の命を奪った結核で、六尺のふとんの上だけの宇宙で生き、死んだ。六尺のふとんの上で時代を先導した異常な活力の持主であった。異常な食欲であった。
朝から、ぬく飯四碗、午[ひる]に粥三碗、焼鴫[しぎ]三羽、キャベージ、漬物、梨一つ、ぶどう。間食に牛乳入りココア、菓子パン大小数個、塩煎餅、晩、与平鮓、粥二碗、まぐろのさしみ、煮茄子、ぶどう一房、夜食にりんご、飴湯、そして山のような糞をする。その間に繃帯取換。子規はその苦しみのために、絶叫、号泣、絶叫、号泣する。
その全てを支えたのが妹の律である。病床にほとんど毎日出没する友人達の世話もしただろう。
愛嬌の極端に少なかった女性だったかも知れぬが、子規に「律は、同感同情なき木石[ぼくせき]のごとき女なり・・・病人の命ずることは何にてもすれども」、要するに気のきかぬ女だとクソミソに書かれ、書かれたものはすぐ活字になった。「時として殺さんと思う程腹が立つ」と書かれる。
しかし、律は看護婦でありお三どんであり、家の整理係であり、秘書であり書籍の出納、原稿を浄書する。しかも、看護婦の十分の一も金がかからぬ。ぬく飯四はい、さしみを食う病人の奥で香の物だけで食事をしている。
子規も律が居なければ一日も自分が成り立たぬ事は承知している。毒づかれながら、カナリヤのかごの前で、二時間もカナリヤを飽かずに見入っている。カナリヤの前に座ってじっとカナリヤを優しい目で追いつづける律を想像すると胸がつまる。
病人を殺したいと思ったのは律の方ではなかったのか。
団子が食いたいと言う病人のために、下駄ばきでうつ向きながら団子屋に一人で向かう律、真に偉大な女は、常にそのエネルギーを内に秘め沈黙している。